戻る  ルフィミアネットの本はこちら

公用負担説と対価説の違いについて

 本題に入る前にまず租税の定義を見ておきましょう。

が租税になります。(この記述は有斐閣の法律学小辞典の第1版の記述です。)
 ここでは「特別の給付に対する反対給付としてではなく」に要注意。

 端的に言うと、「公用負担説」というのは「特別の給付に対する反対給付としてではなく」ということを強調した説なんですね。受信料とは言っているけど、放送という給付に対して、その給付の対価としてではなく徴収するものなのだと。実際租税と区別すべきものに「特定の事業にあてるためその事業に関係のある者からその関係に応じて徴収する=負担金」というものがありますので、これにあたるのだという説なのです。すごくぶっちゃけた言い方をすると「NHKを見ているからその料金を払え」ではなく「NHKがやっている事業の維持のためなのだから見てなくても払え」というのが公用負担説なんですね。

 でも私自身も、また有斐閣「交通・通信法」も、単純な公用負担説は採用していません。「交通・通信法」はその理由を明らかにしていませんが、私自身はここは明快です。公用負担説で行くなら「公共放送ということ自体に社会全体としての利益があるのだから、その負担は放送を見ている見ていないにかかわらず求められるべきである」ということにしないと整合性がとれませんね。社会全体ではなく特定の利益のためであれば、まさにその利益に関する人だけ払う義務があるってことになる。
 ところが放送法が定める受信契約義務者は「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者」であって、けっして国民全体ではない訳です。そうすると、公共放送によって得られる利益は「社会全体」ではなく「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者」の集団にしか帰属しない訳ですね。(だからこそ定義どおり「公用負担」な訳ですが……。)じゃあその利益って何?ってことになると、説明に窮しませんか?(社会全体というならむしろ説明しやすいでしょ?協会の放送に限定しちゃうと「協会の放送を受けられると利益がある」って言うなら、それはまさに対価じゃないかってことになる訳で。)
 長谷部先生の「公共放送が存在することで、民間放送の番組編成の偏りにも一定の歯止めがかかっており、それによって視聴者が利益を得ている」というのは、「おれは公共放送は見ねえぞ」って言っている人が「公共放送からは利益を得ていない」とは言わせなくする指摘である点において有益な指摘だと思います。実際、番組の多様性の確保という点において公共放送のないアメリカ式でいいのかとは私も思うものですし……。ただこの長谷部先生の立論からすると、「協会の放送を受信できず、民間放送だけ受信できる受信設備」の場合には契約義務がないこととの整合性がとれない……。だってTVを見ていないのとは違い、民間放送は見れるわけで、しかも見れる民間放送にも公共放送の存在による利益が及んでいるんだから、受信料の負担を求めないのはおかしいでしょ?

 それでも放送法制定当時は技術的環境が今と違っていた訳で、

という中では公共放送の必要性は必ずしも否定できないでしょう。  でもこれは状況が明らかに変化しておりまして……。
 電波という資源が有限なのは変わらないけど、お金だけ用意できれば事実上制限がありませんし、(これはスカパーを見れば一目瞭然でしょう。)視聴に応じた対価の徴収は可能になりましたし、しかも音声や映像を伝えるために、電波以外の技術がない訳ではないですね。(高速インターネット回線で実現できます。)

 それでも認められる公用負担の根拠となるべき利益って、結構説明に困りませんか?
 というので私は対価説ベースで考えるしかないと思っているのです。

(2009.7.7.改訂)
戻る  ルフィミアネットの本はこちら