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当事者

 訴訟についても「土俵にあがる」なんて言い方をしますんで、ここでもこのたとえを使いましょう.
 土俵には実は誰でもまたどんな時でもあがれるという訳ではありません。何段階かの審査が概念上は入っています。
 一番やさしい例では普通の人間(自然人と言います)であってかつ普通の大人であるXさんが、これまた普通の大人であるYさんを相手に金を返せと請求するような訴訟を考えます。
 この訴訟では民事訴訟法でいう当事者の問題は発生しません。訴状にその他の問題がなければおそらく口頭弁論が開かれることになるでしょう。土俵にあがって相撲をとれる訳です。
 ところが世の中はそんな簡単なことばかりじゃあない……。
 訴訟行為を現実に行う人と裁判の効果を発生させる人とを分けた方がいい場合、また分けなきゃいけない場合というのは存在するのです。これらの例を順次紹介しましょう。

1 代理人
 まずはよくある代理人というやつ。これは本人に代わって訴訟行為を行い、訴訟の効果は本人に発生させるってやるです。基本的には本人が何らかの事情で自ら訴訟行為ができない場合です。
 この例が一番よく見られるのは、まずまっさきに「たいていの人は裁判が苦手」って事情があげられます。そりゃあそうだろうなあ……。
 にもかかわらず大変恐ろしいことに日本の民事訴訟制度は本人訴訟主義を採用していて、本人が訴訟行為を行うことを原則にしています。代理人を選ぶか否かは本人の判断だし、代理人を選んでもその費用は自分持ちなのもここから来ています。(例外は交通事故などの場合の損害賠償請求。これは弁護士費用も損害として請求する例が見られますし、その中の多くは妥当な額が認められます。もっともこれだって後から戻ってくるかも……という話にすぎないのですが。)「弁護士を選ぶも選ばないも個人の自由」なんでこのパターンの代理人を特に「任意代理人」と呼んでいます。
 任意代理人には弁護士しかなれないのが原則です。(民事訴訟法54条1項本文)例外は簡易裁判所における訴訟行為で、これは裁判所の許可により弁護士以外も任意代理人になれます。(54条1項但書)
 任意代理人に対し、本人がやろうと思っても法律上できない場合の代理人を法定代理人と言い、例えば未成年者などは単独で法律行為ができないとされている関係から訴訟においても単独では訴訟行為ができず、法定代理人が訴訟行為を行うことになります。
2 代表者
 個人ではなく集団自体が訴訟をすることを民事訴訟法は認めています。法人がそれ自体で訴訟を行うことは当然ですが、独立の法主体であることを認められない集団であっても、民事訴訟法は集団自体が訴訟をすることを認めているのです。
 しかし、集団自体が訴訟行為を具体的にすることはできません。そこで集団の構成員が集団のために訴訟行為をする訳ですが、この構成員のことを特に代表者と呼んでいます。基本型が「本人が訴訟行為を行い、訴訟行為をした者に訴訟の効果が発生する」というのに対し、代理人は「訴訟行為を行う者と訴訟の効果が発生する者が異なる」場合であります。この点においては代表者と代理人は共通しています。しかし任意代理人は「本人も訴訟行為は可能である」のに対し、代表者は集団自体(本人)が訴訟行為をし得ません。これを「できない」点に着目すれば法定代理人の場合と構造は一緒ですし、「集団を人間にたとえるのは土台ナンセンス」と見れば法定代理人とも違うということになります。

3 選定当事者
 集団自体が訴訟できると言っても、あらゆる集団ができる訳ではありません。民事訴訟法29条が「社団・財団であること」「代表者・管理人の定めがあるもの」という限定をつけていることからわかるとおり、法人ではなくても集団としての独立性をもっていることを要求しているのです。
 そしてその独立性すらないので集団として訴訟の主体となることは認められないけど、集団的に取り扱うべき事情が存在する時に使われるのが選定当事者の制度です。本人がやろうと思えばできるんだけど、あえて他人に訴訟行為をさせ、訴訟の効果は得ようとする点では代理人や代表者と構造的には同一です。
 ところが現実には選定当事者の制度はあまり使われていません。選定当事者が使われる一例としては、たとえばたまたま乗っていた路線バスが事故に巻き込まれた時に、バスの乗客が事故を起こした原因を作った例えば衝突した相手の車の運転手だとか、乗っていたバスの会社を相手取る時が考えられるのですが、こういう場合はえてして共通の代理人がつき、当事者多数の普通の訴訟(と言っても民事訴訟法38条以下の共同訴訟な訳ですが)として進行するからです。

4 当事者能力
 以上1から3までは訴訟行為ができるのか否か、この場合の訴訟の効果は誰に帰属するのかという問題として捉えられ、通常はまとめて「当事者能力」の問題と考えています。当事者能力は訴訟の内容にかかわらず形式的に定まるという点を特徴としています。これはたとえて言うなら「土俵にあげてもらえるか否か」の問題になります。
 これに対し土俵にあがった時に「はっけよい」をかけてもらえるかどうかという問題があります。
 これが当事者適格の問題なのです。

5 当事者適格
 当事者適格の問題が当事者能力の問題と異なるのは、それが「事案による」ものであるか否かの違いによります。
 当事者適格の問題は、土俵にあがった時に「はっけよい」と言ってもらえるか、ちゃんと相撲にしてくれるかという話なのですが、実務で支配的な「旧訴訟物理論」は裁判の目的をおおむね「法を適用することによって問題の解決をはかる」というところにおきます。したがって裁判をしても問題の解決にならない場合や、法の適用ではどうしようもない場合には、そもそも「はっけよい」とは言わないという立場なのです。
 このように考えて「まったく関係のない赤の他人の権利関係」なんかで裁判を起こしても、当事者適格の要件ではねるというのが当事者適格の議論なのです。関係があれば当事者適格ありとされる訳ですから、関係があろうとなかろうと土俵にすらあげてくれない当事者能力の問題とは別なのです。


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