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質屋の歴史

 質というシステム自体は特に貨幣経済の発達を待つまでもありません。何かを貸す時に、返すまでの間、借主の持つ何かを預かっておく、もし返せなかったら、預かっているものも返さないというシステム自体は旧約聖書の頃からありました。たとえば申命記24章6節10節11節などには、質についての制限が記載されています。で、それを商売にしていた人もいたのかもしれませんし、貸金業も存在していたのかもしれませんが、このことをもって質屋というものが存在していたと解するのは、それは早とちりというものでしょう。(この見解をとるものとしてケネス・ハドソン著北川信也訳「質屋の世界」リブロポート1985年)
 日本の場合には藤原定家の日記「明月記」(1234年)の中で「土倉(とくら)」という質屋業を表す表現が文献上初めて出てきたことから、この頃からの歴史であるとしている質屋さんが多いようです。(私がインターネットで調べたところ、だいたいがこの見解のりのよう。代表的なものとして長崎の質屋「質庫・ぜに屋本店」以下特記ない情報についてはぜに屋本店による情報を採用しています。)当時の土倉は「造り酒屋の兼業であった」とされています。
 もっとも当時は現在でいう不動産質が中心であったという指摘があります。(名古屋の質屋「お宝バンク ヤスイ」)現在のように動産が中心となったのは南北朝時代に入ってからだと。これを支持するのが入江雄吉「落語で読む経済学」PHP研究所1989年で、庶民金融機関としての質屋の歴史は室町時代からだと述べています。
 土倉という言葉が質屋に変わったのは江戸時代の質屋取締令からで、その後現在にいたります。
 江戸時代は落語にも質屋が登場するくらいで、庶民の暮らしにも密接にかかわっていたと言われています。人口75万人の江戸における質屋数が約2700軒というのが本当であれば、大ざっぱ人口300人あたり1軒ですから、「町内に2〜3軒 郵便局より密度が高い」という前述入江の指摘も間違いなさそうです。(ちなみに私が職業別電話帳から拾ったところ、函館の人口が大ざっぱに30万とすれば1000軒あっても不思議じゃありません。今の函館の郵便局はおよそ60、コンビニエンスストアでも140程度なので、かなりの多さでしょう。)
 当時の利率は月1.5%〜2%でした。しかし利用法は「小質」と呼ばれる、日常の生活用具等を質入しては早ければ当日中に請け出すという短期の利用がほとんどで、それでも利息は1か月分で計算されますから、質屋にとっても結構な収入だったのでしょう。(この項は前述入江による。)同時期のイギリスでも事情は一緒だったようです。(前述ハドソン。)
 その後、「銀行の発達(庶民の預金も受け入れるようになった)」「社会保障制度の充実(低所得者層に対する救援制度)」などの要因で、「生活用品を質入して短期に請け出す」という利用形態が少なくなり、当然これは利息収入の減少を招き、利率の上昇につながります。質草は日用品の中でも高価な物へと変わっていき、現在の主力は貴金属類だというところも少なくありません(質草のうつりかわりについて東京都北区の質屋「フタバ質店」)。質屋の経営困難による廃業・他業種への転換などが起こり、これに「消費者に対する無担保金融の増加」もあいまって、質屋はだいぶ減少しました。函館の現在の質屋は13軒、東京都でも700軒程度とのことです。

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