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両刀論法の非論理
もしくは反NHK受信料な議論の疑似法学性
両刀論法の非論理
最近高橋昌一郎の「科学哲学のすすめ」丸善を読んでいて、その第1章「科学と哲学」の冒頭部にこんなくだりを見つけました。
五木寛之「大河の一滴」の一部から「科学は常に両刃の剣である。医学や技術の進歩によって救われた命と、それによって失われた命とはたしてどちらが多いか。私は五分五分だと感じている。医学が作りだす病気もまた少なくないのである。」という一節を引用した上で、
「「医学や技術の進歩」が人類に計りしれない恩恵をもたらしてきたことは、紛れもない事実である。逆に「医学や技術の進歩」がなければどうなっていたか。仮に抗生物質やワクチンが発見されていなければ、ペストやコレラをはじめとする病原菌の猛威によって、人類そのものが絶滅していたかもしれない。薬の副作用や、特定の抗生物質に耐性をもつ新種バクテリアのように、「医学が作りだす病気」が存在することも確かである。しかし、それらを考慮しても、科学によって救われた命と失われた命が「五分五分」だというのは、あまりにも極端ではないか。
さあ、ここで、どう考えます?
五木寛之がもしかしたらしたかった問題提起の是非はあえて触れません。本題ではないし、同書が別の箇所で指摘しているカール・セーガンの「科学と悪霊を語る」の中で「人間の平均寿命が著しく延びた」と述べていることが正しければ、多くの人間の寿命が延びるという形で示されたことにきちんと反論できなければ、「五分五分」というのは棄却されるべきだと私は思っているからです。
もう1つの例
五木「そのことを統計的に証明せよ、と言われても、私にはそれをする気はない。統計や数字もまた現代の大きな病の一つだと感じるからだ。数字は正直だが、それを扱うのは問題だらけの人間たちではないか。文明の利器と称されるもので、凶器と化す可能性が皆無なものがあったら、教えてもらいたいものだ。」
高橋「たしかに、たとえば自動車は便利で快適な「文明の利器」だが、悲惨な交通事故を生じさせる可能性もある。あらゆる家庭やレストランの厨房では、包丁が使用されているが、「凶器と化す可能性」も皆無というわけではない。しかし、それだからといって、自動車や包丁が、「文明の利器」であるのと同程度に「凶器と化す可能性」をもつわけではない点に注意しなければならない。
さあ、ここで、どう考えます?
五木寛之が暗黙のうちに使用している「どちらかだ=五分五分だ」する論法は、古代ギリシア時代から「両刀論法の非論理」として知られる詭弁の一種なんだそうです。本来は等確率ではない二分法を五分五分だとみなすのがポイント。
……いや、詭弁なのはわかっていたんで、詭弁なんだよという説明を私もしているんだけど、そんな名称までついている典型的な詭弁だとは思わなかった……。
で、反NHK受信料な方々がこのサイトを紹介する時の多くが、「両刀論法の非論理」という詭弁を使っているんですね。「違憲か違憲ではないかのどちらかだ=五分五分だ=だから両方を紹介するのが「公平」だ。」
さて、この詭弁を見破るのは割と簡単です。検証すればいい。最初の例なら科学によって失われた命と救われた命を比較すればいい。第2の例だと凶器と化した例と化さなかった例を比較すればいい。そして法解釈の是非なら……判例と学説でチェックすればいいのです。NHK受信料違憲・違法説を合憲・合法説と並べているところで、学説や判例のチェックをしているところは皆無のはずです。チェックすれば詭弁なのがたちまちばれるので、できないのでしょう。
反NHK受信料な議論の疑似法学性
さらにこの本を読み進めていくと科学と疑似科学の比較をしていたのですが、疑似科学の多くに見られる特徴が、NHK受信料違憲・違法説にも見られることに気づきました。具体的な検討は同書のp32を見ていただくこととし、また「法解釈学は科学か?」という問題もあるので(ちなみに私は「社会科学は自然科学とは違うが科学である」という立場ですが、これはまあ本題ではないので省略。)あまり厳格には適用できないと思いますが、
「専門知識の欠如あるいは偏重が見られる」
「知識の更新や進歩が見られない」
「自説が完全だと信じ、断定的に固執する傾向が強い」
「反例よりも、合致例を優先的に探す」
「自説に対する分析批判は受け入れない」
「理論よりも体制や人格に関する論争を歓迎する」
などというのは、実によくあてはまっていると思います。
……もしかして科学に対する疑似科学のように、法学に対する疑似法学があって、反NHK受信料の議論って疑似法学の現れであることが目立つのかも……。
(2008.9.23.)
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