戻る  ルフィミアネットの本はこちら

国会答弁の位置付け

 結論から書いちゃうと、日本においては「立法者の意思が裁判所による解釈を拘束する」とする考え方は採用されていないんです。もうその時点で、「法解釈をするときは、国会議事録なんて見る必要全くなし」と言っても、実はそう困ったことにはならないんですね。
 でも一方で、初学者向けの教科書でも国会答弁の類が紹介されていることは結構あります。これはなぜか?
 裁判所でどんな判決が出るだろうと推測する際、まず真っ先に調べないとならないのは、当の裁判所の判決です。当たり前のように見えますが、反NHK受信料の方々はこの作業をまずやっていないと言っても過言ではないんで……書かなきゃいかんのだな。
 具体的に言うと、まず同種事案における最高裁判決がないか探す。あれば判例変更しない限り同じ判決がまた出るでしょうとなります。
 次が「同種ではないが射程範囲内にあるであろう最高裁判決」と「同種事案における下級裁(高裁・地裁・家裁・簡裁)判決」です。下級裁判決の方から説明すると、同種事案であれば同じ判決が出るであろうと予想できることは最高裁でも下級裁でも一緒です。ただし現実には違う裁判官が審理しますから別の判断が出ることもあり得るし実際あります。その時に最高裁判決があれば、最高裁自身が判例変更する場合でも慎重に審理しますし、下級裁でも「上告されたら最高裁が別の判断するだろう」と思えば、最高裁の既に出された判断に従うものです。(だけど「最高裁が判例変更するだろう」との確信のもとに下級裁が判断することもあるんで、絶対ではないのですが。)しかし最高裁判決がない段階では、それほどの確実性がないんですね。だから順位としては最高裁判決より一歩下がることになります。同種ではないが射程範囲内にあるであろう最高裁判決はこれは具体例で説明しましょう。こういう主張はいけません……NHK受信料問題で法解釈の基本中の基本を学ぶの中で憲法29条違反の主張を切っていますが、「裁判所ではまず通らない方の主張。なぜなら目的の合理性を否定した違憲判決はたぶん0。手段の合理性を否定した違憲判決は1件のみ。あとは手段の合理性についての適用違憲が1件あるだけで、あとの事件はみな討ち死に。少なくとも「本人の意に反する徴収」を争ったパターンでは全敗。」と書いていますね。NHK受信料の法的性格について直接争われた最高裁判決がなければ、次は「ある共通点があってそれが結論に結びつく重要なポイントであるならば、同趣旨の判決が出るだろう」と推測するわけです。例えば「本人の意に反して強制徴収するのがおかしい」というのがポイントであるなら、「本人の意に反して強制徴収するのがおかしい」と争った事件の判決を探すわけです。そうすると「消費税」「国民年金保険料」「国民健康保険料」「農地法による農地買収(現金ではなく土地の徴収ですな)」というのが見つかる。それらで「おかしくない」という最高裁判決が出ていれば……。なぜNHK受信料だけ「おかしい」という判決が出ると予想できるのでしょう?そういうことなんですね。
 これら判決がなければ「射程範囲内にあるであろう下級裁判決」も探すことになります。
 そういう判決を探したけど一切ない。そうなった時には、本来は「既存の法解釈の体系と衝突しないように、同種の事案でも妥当するように」解釈をしなければなりません。だから自分で既存の法解釈体系を記述しなければならないのです。
 でも通常はそんなことはしません。特定の法分野の体系化だって、めちゃくちゃ大変な作業です。だからたいていの法学者は既存の法解釈の体系について先行する研究に頼るのです。文献を示すということは、そういう意味を持っているのです。そして法律実務家はその成果を利用するんですね。だから法律実務家も文献を探す……と。
 ここまでで、国会答弁全然出てこないでしょう?「じゃあどこで出てくるの?」と。
 先行する研究は体系化だけとは限りません。特定の問題を深く掘り下げた研究もあります……というか普通はそっちでしょう。特定の問題を深く掘り下げるその中で判例がない、既存の法解釈の体系の中にもそのものずばりがない、だから自分で編み出すしかない、そういう状況下で参考資料として使うものの1つが、国会答弁なんです。このレベルの参考資料としては他に諸外国の立法例・判例があります。こう書くとピンと来るかもしれませんが、「諸外国の立法例や判例をそのまま日本に適用するわけにいかないな。」といえばこれは納得してもらえると思います。日本の法制に適合するかどうか、言い換えれば既存の法解釈体系と衝突しないかどうか、きちんと検討しなければなりません。それと同様に国会答弁があったからと言っても、それが既存の法解釈体系と衝突しないかどうかをきちんと検討しなければならないのです。判例があったり、判例がなくとも学説としてはほぼ統一的な見解でまとまっている場合に、そういうのを根拠にせずに国会答弁を持ち出すのはもはや誤りの領域なのです。そしてその検討の結果として、これは使えるもので参照するに足りるだろうというときに、初学者向けの文献であっても紹介する場合があるってことなんですね。
 まとめると、国会答弁は既存の法解釈の体系では導き出せないときに、ようやく参考資料になるものにすぎないのです。判例や学説の検討がまず先なのです。それをしていなかったり、正確な理解なしに、国会答弁のレベルの参考資料を正確に取り扱えるということはありえないのです。
 にもかかわらず「国会答弁」を金科玉条のように扱っているところの情報は「法解釈としては」切ってしまっても、そう変なことにはならないのです。

 ちなみに、これは本の宣伝をかねた(笑)余談なのですが……。
 「国際法からはじめよう」でも国会答弁を取り上げた個所があります。例えば「国会による承認の必要な条約」の範囲についての昭和49年2月20日政府統一見解です(p59)。でも私は「こうなってます」と書かずに「……ことで日本の外交当局は動いております」と書きました。もともとは憲法73条3号で内閣の条約締結権を定める一方で、但書で国会の承認を要求している。だけど、全ての条約がこれにあたって国会の承認が必要だとは考えられていない。国際法上の条約と73条3号の条約が全く同じなのかという問題がある。そこで国際法上の条約の定義については、「国際法からはじめよう」を読んでいただくこととして(これが宣伝な訳だ)、憲法73条3号の「条約」の意味について、その意味をさぐる場合……。当然のように判例がない。そこでようやく登場するのが国会答弁というものなのです。そしてせいぜいが「政府はそのように考えている。(そして承認するのが国会ですから国会はその政府の考えに異を唱えていないようだ。)」ということなのであって、特に他の条項との矛盾もなさそうでしたから、その限度で紹介したのですが……。それ以上の意味をもたせるのは間違いなのです。

戻る  ルフィミアネットの本はこちら