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演習2 電子メール公開の違法性?
ネットニュースで見知ったにすぎない人からもらったメールの公開
Newsgroups: japan.yoso,fj.soc.law
Subject: Re: メール2通
Message-ID: <20010311101224cal@host.or.jp>
From: cal@host.or.jp (SASAKI Masato)
Date: Sun, 11 Mar 2001 10:12:24 +0900
(前略)
平成8年4月26日高松高裁判決
(判例タイムズ926号p207)
があります。
手紙の公開を
・著作権侵害
・プライバシー権侵害
の両面から検討し
著作権侵害については著作物性を否定し
プライバシー権侵害については一定の事情の存在を理由に肯定したものです。
この判例の基準から言えば
ネットニュースで知ったくらいの人に出したメールを公開されても
プライバシー権侵害にはなりませんし
まして著作権侵害にもなりません。
以下詳説します。
まず著作権侵害の点ですが
同判決は
問題となった手紙が
「自身の考えを述べたものであって、
その思想または感情を表明したものといえる」
としつつも、それだけでは著作物にはならないとし
「著作物というためにはその表現自体に
何らかの著作者の独自の個性が現われていなくてはならないと解すべき」
として
本件の手紙には法的保護に値する「創作的に表現したもの」という性質が
認められないと判断しています。
したがってたいていの人のたいていの手紙は
著作物性が否定されます。
いわば「手紙文学」とでも称せられるものだけが
著作物性が認められることになります。
(手紙だからというだけで著作物になる訳ではないし
作家が書いたというだけで著作物になる訳ではない。)
この点fjでは異なった意見を述べる人がいますが
たいていは同判決で問題になった手紙を見ていないか
(判例タイムズでは判決全文を見ることができ
その中で問題となった手紙も見ることができます。)
同判決の判断基準を採用していないかのいずれかで、
通説判例から見て誤りと言えるものです。
次にプライバシー権侵害の点です。
まず同判決は手紙について
「もともと公開を予定していないものであるから、
その性質上当然に私生活に属する事柄であって、
その内容がどのようなものであれ、
一般人の感受性を基準にすれば公開を欲しないものと解すべきもの」
という一般論を提示しています。
しかしこの一般論を覆す理由がないとして
プライバシー権侵害を認めている訳ではありません。
本件の特殊事情として
・もともとある団体の内部紛争に関する件であった
・手紙の差出人はその団体では相当の地位にあった
・手紙の受取人はその団体で反主流派とも言える立場であった
・手紙の内容は
「自分はそういう地位にあるので支援はできないが
心情的には受取人に賛成しているのでがんばってほしい。」
という内容であった
という事実を認定した上で
「みだりに公開されないことについて
法的保護に値する利益を有しており」
としています。
私はこの結論を妥当と考えています。
この状況下でこの手紙を公開するのは
そりゃあ裏切りってなもんでしょう。
もともとプライバシー権の侵害になるというのを解析すると
「私信のやりとりをする信頼関係」
というのが存在していなければならないはずです。
電子メールの発達で世間の常識を知らない人が増えていますが
見ず知らずの人に手紙を出すことはそれ自体失礼にあたるから
見ず知らずの人に手紙を出す時には
その失礼をわびる書き出しで始めたものです。
(「手紙の書き方」的な実用書を見れば一目瞭然。)
そしてプライバシーに関わる事項を書くくらいの信頼関係があるのだから
その信頼関係を破壊して公開する行為が
プライバシー権侵害を理由とする不法行為になるのですし
そういう事例で不法行為による損害賠償を認めてもそう違和感はないでしょう。
ではそういう信頼関係がない場合はどうでしょうか?
ここでも「不法行為になる」とする主張も可能ですが
その主張は著しくバランスを失していると思います。
すなわち
「手紙を受け取った人はそれがどんなものであっても
その内容を公表してはいけない」
という義務を負うと解する訳ですが
一方で手紙を出す側は
・公開されるような相手だと判断したらそもそも出さない。
・公開されて困るようなことは書かない
などの防御策がいくらでも可能なのに
それをしなかったことが一切不問に問われてしまう訳です。
その防御策をとらない理由が
「まさか相手が公開するなんて」という信頼にあり
その信頼がまともであれば上で書いたとおり法的保護を与えていいでしょうが
その信頼が押しつけだったりひとりよがりの時
そしてそういう信頼がそもそも存在しない場合
こういう場合にまで防御策をとらないことを不問にすることは
何の権利義務もなく相手に義務だけを押しつけるもので
到底容認できる話ではないでしょう。
(この極端な例として
手紙自体が犯罪をなす場合、犯罪の一環として行われる場合、
不法行為として損害賠償の対象になる場合などがあるでしょう……。
見ず知らずの人から嫌がらせの手紙をもらって
それの公開ができないというのは明らかに変でしょう。)
ネットニュースで知った人にメールを出すのは
割と気軽に行われていますが
だからと言って
「信頼関係があるんだ」と解するのは勘違いですし
ネットニュースで知った人だってだけで
その人にメールを出し
それを公開されたことをもってプライバシー侵害とするのは
以上のとおりで誤りです。
----------------------------------------------------------------------
Talk lisp at Tea room Lisp.gc .
cal@host.or.jp 佐々木将人
(This address is for NetNews.)
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「春を探しに出かけない?」って誘ったら
ルフィミア(cv磯脇やそよ)はなんと答えてくれる?
この記事を書いてからもう6年半たつんですね〜。
若干の背景を説明しますと、
nntpというプロトコルを利用したネットニューズという情報交換システムがあります。
メールが基本的に1対1のコミュニケーションツールであるのに対し
基本的に多対多のコミュニケーションツールでした。
おおむね話題ごとに分類されていたのですが
その中の1つに法律について議論するfj.soc.lawというのがありました。
そこで「メールを公開することの是非」が問われて
それに対する私の回答が上のものです。
当時のfj.soc.lawは(その前から見ればだいぶまともにはなりましたが、それでも)
法律を勉強したこともなくまたろくに調べもしないで
自分の感覚だけでそれっぽいことを言う人がまだ結構見受けられました。
著作権についても、私は「著作権原理主義」と呼んでいましたが
著作権保護を声高に叫ぶあまり
法律上は著作権として認められないものでも
著作権だという議論が結構横行していたのです。
たとえば「人間が書けば著作権が認められるのだ」的な。
|この点fjでは異なった意見を述べる人がいますが
|たいていは同判決で問題になった手紙を見ていないか
|(判例タイムズでは判決全文を見ることができ
| その中で問題となった手紙も見ることができます。)
|同判決の判断基準を採用していないかのいずれかで、
|通説判例から見て誤りと言えるものです。
という記述からもそういう状況がうかがえるかと思います。
さてfj.soc.lawはいまやほとんど投稿が流れていない状況ですが
一方でwebの普及で
自分あてのメールを自分のサイトで公開することで
メールの差出人や関係の第3者とトラブルが起きるようになり、
その法的な分析として上の記事がよく引用されるようになりました。
6年半もたったことですし
その後の判例をいくつか加えることで補足してみたいと思います。
とはいえ、手紙の著作物性を判断した事件は1件しかありません。
平成12年5月23日東京高裁判決です。
三島由紀夫の未公開の手紙を出版した出版社に対し
出版の差止と出版の経緯(遺族が承諾していない事実)の広告を遺族が求めた訴訟で
未公開の手紙について著作物であることを認めました。
この判決によって
「手紙は著作物たりえない」という極論は排斥されたと思います。
手紙の著作物性が争われた事件は他にも2件あります。
平成16年12月16日大阪地裁判決と
平成18年2月28日知財高裁判決がそれです。
いずれも原告が手紙に著作物性が認められることを前提に主張したのですが
どっちもその点について判断することなく請求棄却(却下)判決が出ているんですね。
平成16年大阪の事案は
手紙を無断で第3者に渡されたと主張したところ
そもそも原告の主張する事実についての立証がされていないし
仮に立証されたとしても損害が発生したとは言えないという理由で請求を認めず
平成18年知財高裁の事案は、原告の主張が「勝手に使用された」というものであったのに対し
「少なくとも暗黙のうちに黙示の合意を与えている」と認定して
やはり請求を認めなかったものです。
いずれも著作物性については判断していません。
そこで平成8年高松高裁事件と三島手紙事件とを比較検討したときに
これらは結論としては差が出ていますが
だからといって相矛盾する判決ではないと私は考えています。
というのは、上で見たとおり高松高裁が著作物性を否定した理由は
「手紙だから」ということではなく
「創作性がないから」ということなんですね。
創作性があれば著作物性を認めていい。
高松高裁の事件の手紙は創作性がなかったし
三島の方は創作性があった
いわば評価の差だった訳です。
そこで何をもって創作性ありと判断するか?
これはこれからの研究を待たなければなりませんが、
法律を勉強しなくてもなんとか使える(それゆえ精度は落ちるんだけど)
判断基準が2つあると私は考えています。
その1つは田村善之先生も指摘している基準です。
「誰がやっても同じであれば、そこに創作性はない。」
例えば1個のりんごと2個のりんごを足すと3個のりんごとなることを数式で表せば
まあたいてい「1+2=3」になるでしょう。
誰がやってもまあ同じです。
そうすると1+2=3という表現には創作性がないことになるのです。
同じにならないからと言って創作性があることにはならないのですが
同じになるのであれば創作性がないとするチェックは
結構使えると思います。
もう1つは
「普通の人が手紙の著作権を根拠にした裁判を起こしても0勝3敗」
という点です。
確かに判例は作家か否かで区別している訳ではないので
法的にはおよそ正確な立論とは言えないのですが
ただ精度が落ちてもいいのであればこの基準も十分使えると思います。
というのは高松高裁事件も著作権を根拠とする請求は否定していますし
平成16年大阪地裁、平成18年知財高裁の各事件は
「著作権が認められたとしても」結局だめを出しているんですね。
(この2つの事件は原告の法律構成が明解ではなく
裁判所がだいぶ補充しているようなんですが、
それでもだめなんです。)
法律を勉強していない人がばくぜんと手紙の著作権と言ったところで
およそ通るものではないってことは言えるのではないでしょうか。
(繰り返しになりますけど、この基準は法律的な妥当性は薄いです。)
結論としては
|「自身の考えを述べたものであって、
| その思想または感情を表明したものといえる」
|としつつも、それだけでは著作物にはならないとし
|「著作物というためにはその表現自体に
| 何らかの著作者の独自の個性が現われていなくてはならないと解すべき」
|として
|本件の手紙には法的保護に値する「創作的に表現したもの」という性質が
|認められないと判断しています。
|したがってたいていの人のたいていの手紙は
|著作物性が否定されます。
|いわば「手紙文学」とでも称せられるものだけが
|著作物性が認められることになります。
|(手紙だからというだけで著作物になる訳ではないし
| 作家が書いたというだけで著作物になる訳ではない。)
という上の記述が今も妥当しているというのが著作権に関する私の見解です。
さらに創作性については次の点にも留意する必要があるでしょう。
fj.soc.lawでは「著作物性が認められる特許出願書」という話で議論になったのですが、
創作性というのは高松高裁判決が述べているとおり、
|「著作物というためにはその表現自体に
| 何らかの著作者の独自の個性が現われていなくてはならないと解すべき」
であって、これを裏から言うと田村先生の「誰がやっても……」になるのです。
そして表現に著作者の独自の個性が現れるということは……
「標準的画一的処理が要求される類の書類でそういうことをやると用をなさない」
「相手に何らかのリクエストをする場合、創作性はむしろ邪魔」
ということになりはしませんか?
フィネガンズ・ウェイクを柳瀬尚紀が訳したかのような特許出願書は
確かに著作権成立の可能性が出てくるけど
それって……特許出願書なの?ってことになりますし
少なくとも審査官にはえらい迷惑でしょう、
サイトが公開することで問題だとされるメールの中には
結構「相手になんらかのリクエストをし、何らかの反応を相手がすることを期待する」ものが
多いんじゃないんでしょうか?
……そしてその内容がわがままだったりおしつけがましくて腹が立つ……と。
中には「何書いているかわからないから気持ち悪い」というのも相当数あるでしょうが。
そういうものの場合、相手に趣旨が伝わらなければいけないわけで
いきおい、「誰が書いても似たような」表現になります。
誰が書いても同じであれば……。
ちなみに……インターネットで検索すると電子メールの公開を
著作権侵害で違法とする意見が結構見られるのですが,
著作物の定義,特に創作性の有無についての判断が非常に甘いことが多いです。
著作権法10条2項は「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道」を著作物から除外しているのですが,
極端な例だとこれと「創作性の有無」を同じ意味だとしている論理すらあります。
もしくは「事実ではなく感情の表現であれば創作性あり」としているとか。
さすがにこれらは甘すぎでしょう。
判例はそこまで甘くない……ということが,
「これは著作権が成立している」と思って起こした訴訟の「0勝3敗」になっていることに,
現れているのではないでしょうか。
さて……。
著作権を離れて=法的な議論を離れて電子メールの公開の是非を考えてみましょうか。
ここで重要なのは
「手紙を出すのはそれ自体失礼だ」
という観点だと私は思います。
上でも述べたとおり
|見ず知らずの人に手紙を出すことはそれ自体失礼にあたるから
|見ず知らずの人に手紙を出す時には
|その失礼をわびる書き出しで始めたものです。
|(「手紙の書き方」的な実用書を見れば一目瞭然。)
なのです。
本当は相手の所へ直接出向くべきだし
使者をたてる、手紙にするというのは既に失礼、
電話で済ますのは更に失礼なのです。
メールの公開を怒る人は
この点を結構忘れているように思います。
忘れていなければせいぜいが「失礼なことをしたら失礼なことをやり返された」
という話であることも容易に理解できるでしょう。
別にインターネット特有の話ではないのです。
まずもって
「メールは出さない」
「出すからにはその失礼を詫び、
さらにメールの内容が失礼にならないよう配慮すべき」
なのです。
そこをおざなりにした人に
メールを公開されたことを怒る資格はないと言うべきでしょう。
メールをくださいと書いてある場合には
メールを出したことが失礼になるわけではありませんが
だからといって失礼な内容でも許されるなんてことはあり得ません。
そういう失礼のないよう配慮してはじめて
「それでも公開された」ことが非となるのか議論になるのです。
……失礼じゃなかったら公開なんてことにもおおむねならないだろうしね。
仮にそれでも公開する非常識な人の場合
その非常識は非難の対象だけれども
そういう人かどうかを見抜けなかったことはやはり反省材料だとは思います。
実を言うと私にも「自分あてのメールを承諾なしに転送する」メールが来たことがあって
転送した人をたしなめたことがあるのですが
(後で聞いたら、転送された人はやはり怒ったそうです。当たり前じゃん。)
こういうことが起きる背景には
世間の常識を知らないパターンと
インターネットには独自のルールがあるんだと主張するパターンとがあります。
しかし、インターネットがこれだけ普通の人に広まってしまうと
その判断基準もまた普通の人にシフトするのではないでしょうか?
いずれ世間の常識にあわせないと
世間から疎外される……。
なんのことはないメールの公開に限らない一般論なのでした。
(2007.11.2.追加)
(2010.3.30.改訂)
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