NGMPはProtocolであってRulesやLawではないのが、ある意味象徴的でして、その点では法ととらえるのは誤りではないかという指摘は、一定の説得力を持ちます。
しかし、それではNGMPを定める必然性は全く存在しないわけでして……。信頼できるroot型管理者にリクエストを出して、その判断に委ねれば足りる話です。しかし現行のNGMPはそうはなっていないのです。
NGMPを定める目的というのは、ばニュースグループについてのある現状を変更したいと思う参加者は、NGMPが要求する手順を踏めば変更されるし、変更の提案に対し反対の意思を持つ参加者もやはりNGMPが要求する手順を踏めば変更されないということを予め宣言しておくところにあるわけです。そのことによって意見表明の機会と意思決定への参加を保障する点が重要です。NGMPのとおり行われるということが参加者にとっての安心なわけです。
この点、NGMPはまさに法と呼ぶべきものです。
ここで法律に関する特殊な感情を持つ人がいることは間違いありません。たとえば法を破っても妥当なことが行われればそれでよいのではないかとか、法の要求する手続は面倒くさいとか……。
でも何が妥当かがわからないから、正確に言えばある人の考える妥当がfj参加者の多くにとって妥当であるとの保障はないのだから、議論によってこれを検証し、採決によって数を明らかにするのです。いわば妥当であるとの保障をとりあえず与えるために、議論・採決という手段を法で定めているのです。だから法を破ってなお妥当というのは、結局根拠なしに妥当と言っているにすぎないのですし、それを面倒くさいといって忌避するのは、結局他人の考えを無視するに等しいもので、いずれも誤りです。
そして予めという点がポイントなので、もしNGMPにそれこそ妥当でない部分があれば、予め変更すべきなのです。
現在のNGMPは法として取り扱うべきものなのです。
さてNGMPを法として取り扱うという前提においては、たとえば日本における法律とNGMPは、内容以前に形式的な面で既に差異がありますし、それは不備と言っていいものかもしれません。たとえば項番号が振られていないために、ある条項を特定することが困難ですし、「禁止」「許可」「当為」などの形式が意識されていないし、主体や客体が意識されていないので、整理された形になっていません。整理されていないと言えば、「定義をおく」ということにあまり注意が払われていないので、後の条項を前の部分で引用することが数多く行われていたり、規範と規範の説明の分離に注意が払われていないので、ある説明は規範として書かれる一方で別の説明は「解説」という形で付記されたりします。内容以前にこういう差異がありますし、こういう差異は整理しておいた方がいいと思います。
形式面で既にこういう状況なので、内容についても不備があったとしても不思議はありません。
しかし、これらの差異を不備だと判断したとしても、急いで改正する必要があるかどうかは別論ですし、さらにそれを委員会が積極的に動く必要があるかどうかも別論です。
たとえば私は英米法のアプローチを好むタイプですが、英米法では先例を重視しますから、制定法に不備があることはなんの障害にもなりません。もっとも先例を重視するという発想がなければ、明文化しておく必要はあるでしょう。
さらに事務局型管理者は問題の所在を参加者に対し明らかにする必要がありますが、その先の意思決定は参加者の議論に委ねるべきです。確かにNGMPの管理は委員会の権限ですが、その委員会の権限は「fj参加者の意見を集約して(1.1.4)」のものであることに注意が必要です。
以上述べたとおりで、NGMPは法としてこれを尊重していく必要がありますし、NGMP以外の方法論を採用することは厳に慎むべきことであります。さりとてNGMPは改正の要なしとして手を触れてはならないたぐいのものではなく、改廃の必要があれば改廃すべきものですが、この改廃は参加者の議論と採決によって行うべきものであって、委員会は参加者に対し必要な資料と問題提起をなすことがその職務であると考えます。