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従来の形式に比べて情報処理量が無限大に近い?

某所での話。
おおもとのきっかけは中日新聞のこの記事。
http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20130115/CK2013011502000018.html
「XML形式は従来の形式に比べて情報処理量が無限大に近く」
……この表現おかしくない?

正直に白状すると
たぶん言われないとあたし気付かない。
新聞記事だと基本的には概略で意味がとれれば細かいところ気にしないからなあ。
(どうせ正確な理解なんかしてねえだろうから,
 細かいところでうだうだしてもしょうがない。
 むしろ,「この記事からはこのあたりまではあったんだろう?」ってあたりの推理をした方が早い。)
……とはいえ,ここでネタにするのは
 「マスコミしか使わない法律用語っぽい言葉」のカテゴリーのとおりなわけだが……。
で,あらためて読んでみると……
「量が」「比べて」「無限大に近い」……これは日本語か?
まあおそらくは
・これで読者は理解できる?
・(最低限)書き手であるあなた(自身)はこの文章で理解できると言える?
・そもそもあなたは取材対象者から得た情報そのものを理解できているの?
ってチェックのどれか(複数?)でひっかかり
その点で批判されてもしょうがないと思うのね。
「XML形式は従来の形式に比べて扱える情報の量が多く,自由度も高いことから」
くらいでいいんでねえの?とは思う。

この話は,これから展開するジャーナリズム論以前の話で
=ある意味「あんた,馬鹿ぁ?」って言われておしまいって話なんで
そういうレベルに対する対策ぐらいで
あたしの言うことなんざあそりゃあ杞憂だよって言われちゃうかもしんまい。
んで,実際杞憂なら杞憂でもいいのさ。
ただね。
「だから取材対象者に確認してもらいましょう
 ……なんで確認しないの?」
ってえのは
問題意識自体持てないかもしれないけど
ジャーナリストサイドでも,また憲法学サイド(特に表現の自由論あたり)でも
まず容認できない,容認しちゃいけないとされているレベルの話なんで
(少なくとも山本武信「大学教授になれる本の書き方」早稲田出版(2003)p162以下だと
 山本武信は私と同じ感覚であることはわかるんで
 私が独走しているわけでもないのだよ。)
それを今日は展開してみたい。

まず下ごしらえから。
下ごしらえその1は「言論の(自由)市場論」。
近代市民社会が表現の自由に最優先の価値を認めるのは
表現の自由のないところに真の民主主義社会は成立し得ないから
(だってまともな議論のないところにまともな投票なんかできるわけないでしょ。)
だってされる。
そして検閲が絶対に禁止され,事前規制を許さないのが原則だとされるゆえんのものは
「ある言論の是非は
 その言論に対する自由な検討と批判によって
 決定すべきだ。
 質の悪い言論はこの過程で駆逐されていくはずだ。」
という世界観の採用なわけだ。
この世界観であるがゆえに
「だから言論自体が言論の市場に提示されないのでは
 自由な検討と批判ができず
 質の悪い言論を淘汰させることもできない。」
として検閲の絶対禁止などを導き出す次第。

そして「言論の是非」から「言論の正確性」だけを特別扱いすることはできないのです。(←ここ重要)
正確とは何か,正確さの判定基準は何か,
それもまた言論によって決すべきであり
正確さを判定するのは,あえて言えば言論の市場そのものなのです。

もしかしたらある閉じた世界では
「正確」も「正確さの判定基準」も「正確さの判定者」も明らかであり
その閉じた世界の内部では共通認識があるのかもしれない。
しかし……(ちょっと議論を先取りしちゃうけど)ジャーナリストはたいていその閉じた世界の外部の人だし
ジャーナリストが伝える相手もまたその閉じた世界の外部の人なんで
共通認識は共通ではないし,明らかなものも明らかではないんです。

で,話を戻すと
検閲の絶対禁止も事前抑制の原則禁止も
権力に対する抑制であるので
一般私人間では適用されないのではあるんだけど
その世界観については一般私人間では異なるんだってことにはならないことに注意が必要。
……権力との関係では悪い言論が駆逐されるけど私人間では駆逐されないなんてことはあり得ないわな。

下ごしらえその2はジャーナリズム論。
とはいえジャーナリズム論は特に日本では
「とりあえずジャーナリストと名乗ったもん勝ち」的な様相を呈しており
それこそ確固としたものがあるわけじゃあない。
その限りで「それは個人的見解にすぎず裏付けねえだろ?」って言われると
全くもって否定はできねえわな。
ただ,
「私と同じ見解の人が少なくとも一定数いるからこそ
 こんなことが問題とされているんじゃないの?」
って話はできるんで……
まあお楽しみに。

ジャーナリストとは何をする人かという定義自体から
実は議論がはじまっちゃうところではあるんだけど
その定義がどうであれ,次の点にはほぼ一致してもらえると思う。
「ジャーナリスト自身が見聞きし経験し(知覚)たことについて
 ジャーナリスト自身が記憶し
 ジャーナリスト自身が取捨選択の上,表現についても選択して記述(叙述)する」
だから政府の公式見解を発表する報道官(スポークスマン)や
会社として広報活動を行う広報担当者は
ジャーナリストとは呼べないこととなる。
……当たり前と思うかもしれないけど,割と重要なポイント。

ジャーナリストに限らず言論における責任とは
「自らが行った言論について,
 実在の人格とのひもづけまでされた上で
 他者から評価されること(たとえば信頼度が下がること)を
 拒否できない」
というものです。
……署名というのは本来は実在の人格とのひもづけだよね。
このことで「無責任な言論」というのも導き出せる。
「他者からの評価を拒否する・できる言論」がこれです。
「他者からの評価」が抑止力となってまずフィルターがかかるという仕掛け。
そして報道官や広報担当の場合にはその人個人ではなく
政府とか会社とかそういう団体・組織として行うわけです。

そうするとだ……。(下ごしらえ終了)
ここで具体的な例で考えてほしい。
「取材対象者Yから情報I1及びI2を得たジャーナリストXは
 情報I1を記事化することとしてE1と表現した。
 それを公表前にYに見せたところ
 YはI2も必須だとした上でE2という表現になおすよう求めた。」
仮にYの言うとおり直したのであれば
情報の取捨選択や表現の選択がXによってなされなかったのである以上
この記事はYによるものであってXは報道官だとか広報担当とかと同じ立場です。
……とてもXが責任とれる話じゃないし
  そもそもXに責任とらせちゃだめでしょ。
※ちなみにXは自身の判断を優先させていい……というなら
 Yにチェックさせる必要は最初からないよね。

実際「公表前に取材対象者や利害関係者に見せてしまう」ことは
実は結構定期的に起きていて
マスコミでは問題になっていたりする。
……だいたいはあるマスコミがやらかして他社やマスコミ業界団体にがっつり怒られるパターンなのだが
  訴訟化してしまうことだってある。
TBSのオウム報道についてのビデオ視聴事件は
直接は「取材対象者ではなく利害関係者に見せた」ことで
「取材源の秘匿」に反し
結果「取材源に危害を加えた」ことを引き起こしたんだけど
当時のTBSはさすがにこういう言い訳はしていないんだけど
「正確さを担保するため」という意識でやっていたら……。

特にジャーナリストは
「ジャーナリスト自身が見聞きし経験し(知覚)たことについて
 ジャーナリスト自身が記憶し
 ジャーナリスト自身が取捨選択の上,表現についても選択して記述(叙述)する」
ことを徹底しないと
最悪人命が失われることだって現に起きたわけだし
責任の所在をあいまいにするのは間違いないんで
質の悪い記事への抑止力とならなくなってしまうのだ。

中日新聞の件はXのとったE1という表現が
X自身最適なものとして信念のもとにやったとは言えそうにないから
シリアスな問題にならないけど
(また人命には関係なさそうやね。)
でも記者の内心なんてわからないからねい。
もしかしたら当該記者が確固たる根拠と信念の下に書いたものかもしれない。
そうだとしたら以上の問題が浮上しちゃうんで
看過するわけにいかなかったのよ。

以下余談。
ちょっと調べてみたらどうも中日新聞の記事は
系列の日刊県民福井の本社の記者が署名入りで書いたもの。
でも日本の場合,署名入りでもデスクや整理部(中日新聞本社?)が手を入れているだろうから
仮にチェックを依頼するにしても「誰が依頼するのか」で
実務的には意外にはまりそう。
また取材先は明らかに2つあるけど(鯖江市役所の担当課長と経済産業省の担当課長)
どちらも日本国憲法の検閲の絶対禁止規定の対象となる検閲主体である公権力であることが明らかなんで
「公表前の記事をチェックする」こと自体が
「検閲の絶対禁止規定違反→違憲」とされちゃう。
(これは「当事者間の任意」だという形式を整えても全然だめ。)
そうだとすると,ちょっと危機管理ができているところなら
「チェックして」って言われても丁重にお断りするはず。
仮にここがクリアになるくらいなら
もともと
「担当課長の言ったことをそのまま文字化したんじゃないの?
 担当課長だってよくわからないからといって
 システム開発業者の説明をそのまま繰り返しただけじゃねえの?」
って線も否定できない。
いずれ取材対象者に見てもらおうとしても
少なくとも今回の中日新聞の1件は意味なしな感じがするねい。


  1. 某所からのアクセスがいく分かあって
    遡って読んでみたら興味深い話だったんで
    ちょっと補足しておきたい。

    元の話としては
    「あの人の話をするけどその人の本名はあげないでね。
     できあがった原稿はチェックさせてね。」
    という約束で某新聞社に話をしたら
    その新聞社が本名をあげちゃったという話。

    上の話にあてはめるとこの新聞社は何がまずかったかというと
    原稿チェックについてはそんな約束をした時点で間違い。
    原稿チェックなんて許されるわけもないんで
    できもしないことを約束した時点で間違いなのだ。

    一方「本名はあげないでね」は微妙。
    あたしは基本的に「やめとけ」説ではあるのさ。
    というのはもっぱら実際上の話で
    ジャーナリストたる者1つの話題について1人からだけ話を聞いて
    それを記事にするというのは
    そもそも問題大ありのレベルだよね。
    取材相手も複数,さらに自分の独自調査も含まれるだろう。普通。
    そうすると
    その取材の結果を総合すると答が出ちゃって
    仮にAさんが「Bだ」って言わなくてもその答が出ちゃう場合がある。
    この時にAさんにBだと聞いた上で
    「Bとは書きませんから」なんて約束しちゃうのは
    自分自身を「Bとは書けない」立場に追い込むことになるでしょう?
    記事を書くのが仕事なのに仕事の邪魔になることを自らやってどうすんの?

    ただね~。私はここまで原理主義的ではあるんだけど
    この点については日本ではむしろ少数派かな……って気がするのよ。
    これ刑事訴訟法における違法収集証拠排除の話と実はパラレルで
    アメリカではいわゆる毒樹の果実論で
    違法収集証拠はそれ自体が排除されるとともに
    その違法収集証拠によって発見することができた証拠も排除するという思想だけど
    日本では
    「違法収集証拠によって発見された証拠だからといって直ちに排斥されない」
    って考え方がむしろ通説で
    しかもこれは国民感情にも合致していると説明されるのさ。
    そうすると
    「他の人からの取材の結果からわかったことを書いて
     それがある人との秘密にするという約束を形式的にやぶったとしても
     それは約束を破ったことにはならない。」
    と考える人が多いんじゃないかな……って気はする。

    これは相手がマスコミではなく単なる一般人で
    「これはみんなには内緒ね?」ということを言い触らされたとしようか?
    その時に相手が
    「あなたから聞いたんじゃなくて他の人から聞いたことを言っただけで
     あなたとの約束を破った訳じゃない」
    って反論して
    実際それが本当だったとした場合
    それでも相手を約束違反と判断する人ってどのくらいいる?って思うのよ。

    この点において微妙。
    (実際本件でも氏名について後に政府発表があったんで
     今回の話も政府発表後にそれと照合して書いたらどうだったんだろうと思う。
     取材対象者は怒るだろうけど……。)

    ちなみに……
    そもそもこの種の報道が必要かという議論は別途なされるべきだし
    その際「取材対象者の承諾や事前チェックを受けていました」となると
    議論が錯綜しちゃうわけなんで……。
    (この話は上の話に戻るわけだが……。)
    報道が必要だとしても,本名必要かという議論もされるべき。
    ……私はポリシーとしては固有名詞はできるだけあげない方針だけど
      法律系の場合,事案について(XとかYとか)抽象化しちゃうことに慣れないと
      お話にならないから……という慣れはあるにせよ
      この方針で困ったことはないわな。
      逆説的な言い方をすると,その方針で困ることはたいてい必要ないのだ。

    Comment by 佐々木将人 — 2013年1月26日17時06分


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