それは「法の支配」じゃないと思う
田村智明「法解釈の正解」勁草書房の話。
先週弘前ジュンク行った際に
ほぼ衝動買いで買ったと言っていい。
基本的な話としては
「自己の価値判断から離れた純粋に客観的な解釈というのはあり得ない」
としつつも
それは「何をどうこじつけても解釈になる」ことを肯定するものではなく
普遍性をもつことが必要で
この意味において「法解釈の正解」は存在している。
確かに,一時期の旧司法試験が
論理の欠如したいわゆる論点カードの単なる組み合わせで合格してしまうことへの危機感から
現在のロースクールの指導が
「正解を求めるな」と強調するのは理解できる話なのだが
さすがに「正解志向はダメ」というのは行き過ぎだろうというもの。
この線については全く異論がない。
実際私も「なんでその話からこの話に行くの?」って答案を恒常的に書く人を見ているんで
(で,実際,それは間違いっていうと反発されたし。
著者と同じ経験はしているのよ。)
基本的な問題意識には同意するし方向性も賛成なのよ。
※
細かい話をすると私はよく
「よりよい解釈の基準」の話はする。
この基準が実は2系統(体系性と問題解決の妥当性)あって
両方を満たすものがあれば話が早いけど
一長一短がある場合,その優劣を決めることは難しいって言い方をしているところ
たぶん著者はこれにも反対しそうな気がする。
ゆえに
「自分では答案が書けているつもりなのに
客観的には点数にならない」
答案をよく書く人にはぜひ勧めたいとは思うのよ。
だけど……だ!
どうしても我慢できない点が1つある。
それはこの著者の「法の支配」の理解なんだ。
文章中たくさん「法の支配」という言葉を使っているんだけど
そのほとんどは「法の支配」
「ではなく」←ここ重要
「(三権分立を前提にした)実質的法治主義」と書かないといけないのさ。
じゃあなんでこんなことになっちゃうかというと
「法の支配の原理は,「実質的法治主義」とも呼ばれますが」(p29)
……あうあうあう。
著者にとっては法の支配=実質的法治主義になっちゃっている。
≒ではなくて!
たいていの教科書は「ほとんど差はない」って書くけど
「同じ」とは書いてないと思うにゃあ……。
※
ちなみにwikipediaは=であるとした上
それが憲法学界での通説であるかのように書いている。
あたしは例によってwikipediaの間違いだと思ってはいるけど
仮に憲法学界の通説的見解が=だとすれば
「日本の憲法学者は英米法由来の概念をよく間違えて導入する
(例「states action」)」
の類だと思う。
それゆえ著者にとっては
法の支配と民主主義は親和的になるし
(偽装された)一般的規範意識が日本国憲法が前提とする法の支配の原理を支えていることになるし
法の支配における法=正義になっちゃう。
著者はドイツ観念論につながる人で
しかも大陸法系を前提に書いているから
もう仕方のないことかもしれないんだけどさあ……。
イングランドで法の支配と国会主権との関係が常に問われ続けたこととか
(裁判所が適用しなければ国会制定法も法ではないとか
Equityも国会制定法もcommon lawの補遺だというのは
大陸法系の発想じゃ絶対理解できないもんな~。)
EU法のイングランド国内における扱いが概念的には問題になっていることとか
そもそも「イングランド法」には「法の解釈」という概念はないことになるのかとか……。
大陸法系にしか適用できない議論なのであれば
上で上げた「点数にならない人には……」以外は
ちょっと参考にならないな……というのが正直なところ。
あたし自分がlnpp2の「法の解釈」で書いていることが
「先達がいない」ことだとは思ってないんだけどなあ。
……探し方が悪いのかなかなか見つからない……。
……あたしごときが国際法学における前人未到の領域を開拓しているなんて
あり得る訳がない!
(実際,多元論だっていた訳でしょ?)
(2013年1月26日 19時08分)
佐々木 将人: 2015年4月15日 0時27分: 未分類: comment (1)
「(三権分立を前提にした)実質的法治主義」これこれ。
昨今の議論でもこれが抜け落ちている。
どうしても正義の味方=ヒーローになる。
正義の味方≒ヒーローじゃなくて。
ソクラテス氏は泣いています。(関係ないか…
(2013年9月1日22時04分)
Comment by 佐藤泰範 — 2015年4月17日23時19分