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外交的保護濫用防止のためにはやむを得ないのではないか

ノッテボーム事件本案 1955年4月6日判決 I.C.J.Reports 1955, pp.4-65
なんでも批判が多いそうで,
波多野・松田「国際司法裁判所 判決と意見」国際書院においてこの判決を担当した波多野先生も
批判の線で書いているんだけど……。

正直あれ?っと思ったことがある。

まず外交的保護権自体,権利侵害を受けた個人を救済するためのものではなく,
またその個人の権利を国家が代理・代行して行使するものではない,
外交的保護権は国家固有の権利であるということは
(有力な例外を除き)
ほぼ国際法の業界では一致しているところだと思うね。

ところがノッテボーム事件についての批判の1つとしてあげられるのは
「二重国籍の場合に関連の薄い方の国は外交的保護権を行使しない」慣行の存在をもって
「単一国籍の場合に関連が薄いからという理由で外交的保護権の行使を認めない」となると
その者の利益を保護する国がなくなって不都合だという点なんだけど……。

あれ?って思わない?

一方で「外交的保護権は濫用されがち」という危機感も
割と業界では一致した認識だよね。

あれ?って思わない?

個人の権利を国家が代理・代行して行使するものではないということを前提におけば
個人救済のための制度ではない……というのが論理的な帰結になるはずで
にもかかわらず「助けてくれる国家がない」ことを不都合とするのは
おかしくないかい?って思うのよ。

そうすると
外交的保護権の性格について
個人の権利の保護に重点を置きその線で再構成をはかるって主張の人ならともかく
そうでないかぎり=現行の解釈を前提にする限り
あくまで国家の権利として性格づけられなければならず
「個人の利益を護る国家がなくなる」という批判は
「それで何が困るの?」という再批判に耐えられないと思う次第。
そして外交的保護権の濫用を防ぐために
「国民」という要件について,ハードルをあげようというのは
あり得る発想だと思うのですよ。

(2011年8月6日 1時01分)


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