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家庭のたとえで国家を語る危険

一般論としてたとえ話が成立するためには
たとえる元とたとえる先との共通点があって
その共通点以外の部分についてはたとえ変化しても
共通点についての議論が相変わらず成立するということがなければだめ。
この原則を破ると
一見すると説得力のある議論に聞こえるけど
なんのことはない,論理的なものは何一つなくて
単に共感を呼ぶのに十分だったって話に落ちてしまうことになる。

そのいい例を見つけたので紹介したいわけ。

たとえば……
他人の家やその敷地に入ってはいけないという話がある。
国内法的にはおおむね正しい。
だけど
「これを国家と国家との関係に置き換えましょう」
と言った瞬間に本当は,
眉に唾して聞かないといけないのよ。
まして
「他人の家の敷地に勝手に入ってはいけないように
 他国に勝手に入ってはいけないのです。」
なんて説明はじめたら
これはもう間違いの領域で
単に「勉強不足でした」ってことなのか
それとも間違ったことを吹き込んででも成し遂げたい何かがあるのかと疑うべきなのか
慎重な対応が求められることになるのね。

この種の落とし穴にはまらないためには,
結局は基本に立ち返るしかない。

他人の家・敷地に勝手に入ってはいけないのはなぜか?
当然「常識でしょ」って言い分はある。
でも実は「常識」が本当に常識かどうかは常に問題になり得るよね。
慣習だとか,道徳だって言い分もある。
こっちはいちがいに否定はしないけど
慣習とか道徳に違反した場合の効果というのはよく考えておく必要があるよね。
ここでは法律上の議論に限定する。
そうするとこれは結局「所有権の侵害」にあたるから
民事での損害賠償請求権が認められる根拠となるし
刑事での処罰の対象にもなり得るわけだ。
もう少し細かく見ると
日本における所有権は,○○できる権利,△△できる権利などを全部まとめて所有権と言っているということではなく
対象物に対して何でもできる権利として構成されている。
「他人に使用させない」というのも
「何でもできるから他人に使用させないこともできる」所有権のある側面に着目して導き出せる。
そして他人が勝手に家や敷地に入るということは
その家や敷地の権利を持っている人の所有権を妨害することになるから
法律上やってはいけないこととされる次第。

ところが……だ。
領海というのはここでいう家や敷地とは全く法律的根拠が違うのだ。
元々海はどこの国のものか?という問題提起があって
先行して世界の海を制覇したのだと主張していたあの国とあの国は
当然海はわれわれのものだ(=他人の関与は認めない→閉鎖海論)と主張するわけだ。
一方それでは商売にならないあの国とあの国は
立場上も「海は誰のものでもない(→自由海論)」と主張することとなる。
これは結局「海は誰のものでもない」を主張した国が勢力を伸ばしたことにより
「沿岸部のきわめて狭い海域は「領海」として沿岸国の管轄権を一定範囲で認め
 その外部は「公海」として,どの国も自由に使用できるのだ。」
という体制ができ,20世紀初頭まで続くのだ。

ここで管轄権の認められる範囲が「一定範囲」であることに気づいただろうか?
元々は「自由に使用できるのだ」と主張する国が勢力を伸ばして20世紀初頭までのルールとなったわけで
「領海は沿岸国が自由に使える」という考え方とは明確に対立している。
そしてどこで折り合いをつけたかというと実はいろいろあるけど
その代表的なものは
「沿岸国の港に向かうにせよ,沿岸国には寄らないにせよ,
 領海内を停止しないで進行する限り,領海内での通航が許され
 沿岸国の許可など不要である」
という「無害通航権」なのである。

国内法が適用になる家や敷地の例だと「所有権によって排除できる」
国際法の無害通航権の問題である領海だと「無害通航権が認められるから排除できない」
明らかに違う。

にもかかわらず,たとえ話で説得しようとするのであれば
それは論理ではなく単なる感情論で共感を求めに行っているにすぎないと
眉に唾して聞いておくべきなのでした。

(2014年11月8日 22時41分)


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