セピア……
1
幼いときは残酷で、傍若無人だって。それは仕方のないことだと思う。別に私だけがませている訳じゃない。今どきの小学生をなめてはいけないぞ。
彼はいつも植物園の中をぼーっとして歩いていた。その姿を見る度いつも「素敵。」って思ってた。どこが素敵だって?私のタイプなんだからいいでしょ。
その彼が、植物園の中のテーブルで、女の人と話していたから、何か腹が立ってきて、彼が席をはずした時に、彼女に詰め寄った訳。
「あなた、彼の何なの?」
でも、彼女は驚いた表情一つ見せずに、
「そうねえ。恋人……かな?」
って勝ち誇ったように言うの。頭に来る!
「そうやって油断しているといいわ。いつか彼は私のものになるわ。」
彼が戻ってきた。
「上村君、こちらのお嬢様が、上村君を取り戻すと申してますが。」
彼、顔真っ赤にしている。
「お嬢さん、今、私には、その女性がいますので。」
あ〜あ。つまらないの。
「あなたにも、きっといい人が現れるからね。上村君以外の。」
いちいち頭に来る女だわ。
でも、彼の名前が上村だってことすら知らなかったから私の負けね。仕方ないか。
……それは小学5年生の時のこと。
それから上村さんとその女が楽しそうに話をしているのを、植物園で何度も見かけたんだけれど、私も中学校に入ってからは、クラブ活動なんかで忙しくて植物園に行くことも少なくなっていたから、むかつく風景も見なくてすんでいた。
ある時、気が付いたんだけど、上村さんの横から女の人が消えていて、
上村さん一人で植物園を歩いているようになっていたんだ。でも、前みたいにぼ−っとというよりは、何か寂しげにって感じで。声をかけようかとも思ったんだ。だけど、小学生の時のことがさすがに恥ずかしくて、声をかけられずにいたんだ。思春期の私。
2
私は大学生になっていた。植物園と思っていたのは本当は大学だった。何でもこの大学の基本理念とかいうやつだそうで、キャンパス全体を一つの植物園として考えていこうということだとか。おかげで市民の間では、大学なんて言い方をめったにしない。植物園とみんなが呼んでいる。その大学に私も通うことになったんだ。
教養過程の一般物理学。教室に入ってきた先生を見て、さすがの私も声をあげそうになったね。
「彼が先生やってるう。」
履修届出すときにね、上村って名字には気がついてた。でも、世の中には上村さんが星の数ほどいるじゃない?彼が担当教授だなんて、ふつうわからない。
彼はまだまだ若いから授業も一生懸命やっている。でも、学生の方はそれほど一生懸命じゃないから、いつもざわざわざわついている。……無視して集中しようと思ったんだ。「ちょっと、静かにしてよ!」
200名は入るかという大教室中、水を打ったように静まり返った。あれ?先生もびっくりしている。ちょっと大胆だったかな。急に恥ずかしくなってきた。あぁ、友達なくしちゃったな。
私、菅野久美子の大学生活は、こんな風景から始まってしまった。
3
「せんせーっ。上村せんせー。」
上村先生は熱心なんだけど、妙な癖があって、(妙というのは先生に悪いかな。)授業終了の鐘がなると、どんな状況でも授業をやめてしまうんです。どんなに熱中していてもね。次の授業では、前回中断したところから(正確に言うとちょっと前から)正確に再現するところは見事としかいいようがないけど。
終わったらさっさと荷物をまとめて帰ってしまうから、質問しようと思ったら、あわててつかまえないと。
「はい、私がまた何か?え〜と?」
「1年の菅野久美子です。質問なんですが。」
「何?」
「ベクトル記法ってそんなに便利なんですか?」
上村先生、ちょっと困ったような顔をしている。
「まあ、物理学の本質とは関係ないんだけど、楽ができるというのはあるんですよね。研究室で数式書きなぐっている時には万年筆のインクの減りが遅くなるから、たいてい貧乏な物理学者にとってはありがたいとか、授業で説明する時はチョ−クの減りが遅くなるから、たいてい貧乏な国公立大学にとってはありがたいとか。まあこの辺は冗談だけど。」「ふふ。」
「例えば平行四辺形を表す方向ベクトルは2つで足りるんでその平行四辺形の面積を表現することもそれほど大変ではないんだけど、同じことを解析幾何流に表現しようとするとすごい手間なんです。数値を代入できるのであればまだしも、物理学では一般化して議論することが多いから、大変なんですよね。」
「どうして一般化するんですか。」
「違うように見える現象に共通な原理を見つけていこうというのが、現代物理学の指導原理だから、特定の数値にはこだわらない議論をしていこうということになるんです。さっきの平行四辺形の面積もベクトル記法だと|a||b|cosθって簡単になるでしょ。」
「先生、なんでcosθかけるんですか。」
「……菅野さん?ベクトル内積って高校でやらなかった?」
「やったかもしれませんが、覚えていません。」
「あんまりいばって言うことではないぞ。でも、数学ができなくとも物理で単位を取ろうとする努力は買おう。ゆっくり説明してあげるから、私の研究室に来なさい。」
「はあい。」
らっき。
4
質問があると拒めない上村先生。丁寧に教えてくれるし、長くなれば自分の研究室に招待してくれる。こんなことを繰り返している内に、私は上村研究室の常連となっていました。
「先生、何見てんの?」
窓の外をじっと見つめている先生。ぼーっとしているのとは違う。視線が何かを追っている。その視線の先を私も追ってみる。
「ああいう人が好みなのね。」
視線の先には女の子。背が低くて、セミロングの髪が風に流れてる。
「え、いや。その……。」
「照れなくってもいいってば。どれどれ、うん。趣味は悪くないぞ。でも、タイプとしては私もいっしょだぞ。」
「あ、はい。」
何動揺してるんだろ?かわいいな。
「そういえば、あの人は?『あなたにもきっといい人が現れるから。上村君以外の。』って勝ち誇って言ったあの人。」
「……それ、誰ですか。」
「覚えてないの?」
「……はい。すみません。」
「じゃあ、私のこともただの大学生だと思ってたのね。」
「はい。」
「あ〜あ。」
なんか気が抜けちゃうよね。まあ、こういうところがいいんだけど。
「今から7、8年くらい前ね。この大学の外のテーブルに女の人と座ってたことあるでしょう?」
「それはあるけど。」
「ある日、小学生のかわいい女の子が来て、話していかなかった?」
「……すみません。」
「そのときのかわいい女の子がわたし。覚えてないのか。がっかり。」
「すみません。」
「で、その女の人は?そういえばタイプ似てるね。」
先生はちょっと間を置いた。
「ちえみさんにはふられました。」
「ごめんなさい。悪いこと聞いちゃった。」
「いいんですよ。過ぎたことです。遠距離恋愛は難しいってことですね。……お茶入れましょう。」
「先生、いい、私やる。ティータイム、しよ?」
先生の落ち込んでいるところは見たくない。ごめんね、先生。
「先生、エンディングまで泣くんじゃない!」
いきなりガッツポーズをとった私に驚く先生。
「何ですか?それ?」
「エンディングまで、泣いてはいけないということです。」
「あ・は・は……。」
私も変、かな。いや、先生のせいだ。うん。そういうことにしておこう。
5
それから10日くらいたったのかな。先生がすごく楽しそうにしていたから、少しからかってやろうと思った訳。
例によって上村研究室。お茶葉やポットの位置は覚えてしまった。
「先生って正直ものだよね。」
「はい、正直に生きていこうと思っておりますが。」
「そういうことじゃなくてえ。何かいいことあったんでしょう。今日の授業なんてメルトダウン状態。」
「?」
「溶けまくってたもの。」
「わかりますか?」
わからいでか。
「実はですね。菅野さん、この前の女の子覚えてるでしょう。彼女とね、話をすることができたんですよ。」
「……それで?」
「名前が内村さんって言ってね、不思議ですね。私と一字違い。」
いかん、まだ溶けてる。
「それで?」
「それでって?」
「それだけ?」
「それだけですが。」
「お茶に誘うとか、映画に誘うとか、そのくらいの芸をみせなさいよね。」
「は、はあ。」
「だって彼女とお近づきになりたいとか、お友達になりたいとか、恋人になりたいとか、行くとこまで行きたいとか、×××したいとか……。」
「菅野さん、今の発言はちょっと問題が。」
「いいの!どうせ作者が自主規制するから。2行上見てみて。」
「あ、ほんとだ。」
(すみません、ちょっと遊んでしまった。)
「話を元に戻す。彼女と何かしたいって、そういう風に思ったことはないの?」
「はあ。そういえば、あまり考えていませんでしたね。そういえば。」
「まったくう。」
でも、私ってば、なんでこんなにむきになってるんだろう。
6
もう一度10日たった。今日の先生はとてもじゃないが、見ていられない。授業になってないんだもの。しまいには鐘が鳴る前に終わっちゃうし。
で、舞台は研究室に移る。先生はイスに腰掛け、ぼーっとしたまま。
「天気がいいよね?」
「そうですねぇ。」
ぜんぜんのってこないな。
「外に出ませんか。」
「う〜ん。」
先生はそううなったきり、考え込んでしまう。単刀直入に聞くしかないかな。
「何かあったんですか。」
「何もないです。」
「内村って人のこと?」
「関係ないです。」
「……うそ、今日の先生、嘘ばっかり。」
そんな嘘、先生の顔見てたらすぐわかっちゃうよ。
何気なく窓の外を見てみると……。あちゃあ、内村さん、男と歩いてるわ。ずいぶん楽しそうに。腕なんか組んだくらいにして……。
「先生、あきらめるの早いと思う。」
「……いや。いいんですよ。」
「よくない!気持ちはちゃんと伝えておかないと絶対後悔すると思う。」
「……。」
先生黙っちゃった。研究室に気まずい空気が漂う。
「あなたには、関係ない。」
……そりゃあ関係ないけど……。あ、だめだ。涙が止まらないや。
「私じゃ力になれないけどさ、でも、寂しすぎるよ。わたし、先生にはなんでも話してほしいもの。」
だけど先生はそれ以上何も話してくれなかった。
7
それからというもの、気まずくて、上村研究室に行くことも、上村先生に話しかけることもできなくなってしまった。
でも、話ができなくたって、いや、話ができないからこそ、先生の姿を追っている。私の見ている風景の中にはいつも先生がいる。
私が悪いんだよね?
悪いのは私なんだけど。
でも、もうこんなのやだよ〜。
8
昼下がり、先生は植物園のテーブルで本を読んでいる。私は、それを遠くから見つめていた。
視線がふとあった。その一瞬、先生の目がやさしくなっていた……と思った。
先生の座るテーブルまで、そこだけ浮き上がって見えた。
「先生?」
先生は本に目をやる。私もうつむいたまま、先生の言葉を待っていた。
「……離婚歴あり、なんだよね。」
えっ?
「仕事する気もなくなって、無断欠勤ってやつ。すぐにクビになったさ。放浪してたんだよね。しばらく。ぼくの先生が拾ってくれたから、ここの助教授に迎えてくれたから、こうしてるけど、そうでなかったら、きっと今もね。
考え過ぎるんだ。哀しくて。仕方のないことなんだけど。物も食べられなくなるんだ。 哀しい思いはしたくない。もう。
うまくいったって、どこかでころんじゃう。いつかふられるんじゃないか。不安な気持ちに押し潰されてしまう。
動けなくなるんだ。
恋の仕方ってどうだったかな。」
先生は優しく笑っていた。
痛かった。
心が痛くて、涙が止まらない。
「大丈夫、大丈夫だよ。」
私のひざの上で、先生の頭をなでながら、一緒に涙を流していたかった。
そう、きっと、大丈夫。私が教えてあげる。もう一度、恋してみようよ……。
9
「先生?」
「菅野さん?」
「ティータイム、しよ?」
「はいはい。」
いつかと同じ日々が戻ってきた。私は暇があれば研究室に行く。研究室の先生は、
(1) 本を読んでいる。
(2) 何か書いてる。
(3) コンピューターに向かっている。
(4) ぼーっとしている。
これのどれか。だいたい(4)かな。(先生におこられそう。)
先生は私には何もしてくれない。私は先生を見てるだけ。どっかに誘ってくれる訳ではない。食事だって、映画だって。
つまらないな、前とどこが違うんだろう……。
なんてことはぜんっぜんっ考えてないのだな。実は。
「菅野さん。」
「はい。」
「菅野さんって……言うことはすごくきっついよね。」
「あ〜。はっぱかけてただけだよ。」
むきになって否定する私。先生は笑ってる。
「菅野さんの声って優しくていいですね。落ち着きます。不思議ですね。」
ばかぁ。そんなこと、他の人に言ったら絶対だめだぞ。
心にいつまでも残る風景。