気が付けば知らない街だった。あてもなく歩いて、まず本屋が目に入った時、再び嫌な気分が蘇ってきた。息をのんだのはその直後。ビルの中の一角の本屋のその隣のレコード屋に働いていた少女。たぶん大学生くらい。だけど……。いやそんなはずはない。
「ちえみさんは結婚して、ここにはいない。」
だけどその場を立ち去ることはできなかった……。ぼくは大学生くらいの彼女の向こうに今は花嫁となった彼女の若かった頃を見ていた。
思えば、ぼくは、大人になるのに失敗していた。決して悪くはない会社の決して悪くはないポストにいたけれど、表面上は人づきあいもよく、そこそこ従順で、それなりに情熱家で、たまには失敗して、なんとなく成長しているように見せていた。心の奥に割り切れないものが残っていたけど、そんなのは誰だって同じだと思っていた。二面性を解決しないのが大人だって言い聞かせていた。
「ばかなことを言っていないで、早く出社しろ。」
電話に出た会社の上司は、いつものように怒鳴っている。今までは怒鳴られるのも仕事のうちだと思って我慢してきた。
でもどうでもよくなってきた。会社を辞めるというのも自然なことのように思えてきた。不思議なことに、怒鳴られる度に感じてきたやるせなさも今日は消えていた。
「辞表はあとで送ります。退職金は口座に振り込んでおいてください。」
「こら、人の話を聞いているのか?もしもし、もし……。」
ガチャ。
心の救いは彼女だけだった。昔からのつきあいで、本当に仲が良かった。近くにいても苦にならなかった。苦にならないどころか、彼女の存在は空気のようで、そこにいてくれることがあたりまえになっていた。彼女がいなくなることなんて全く想像できなかった。
とりあえずその本屋に頼んでアルバイトを始めることにした。何年かは遊んで暮らせるだけのお金はあったが、しょせんは「何年か」だけのことだ。それと安めのアパートを近くに借りた。ホテル暮らしをするほどのぜいたくは考えつかなかったからだ。
その本屋を選んだのにそれほどの理由はない。ぼくはどこにでも行けた。どこでもよかった。だからささいなことで決めてしまえるんだ。
ぼくは映画を見たかったんだ。ぼく自身が主演している。こうすることで映画を見れそうな気がした。ただ、それだけのことだ。
昔から人間が苦手だった。人の表情を読むとか、言葉の裏を探るとか、そういうことは本当にできなかった。彼女はそんなぼくをわかってくれていた。
いや「わかってくれていたと思っていた。」だけだったのだと思う。
もう一度リプレイしてみよう……。
本屋だってレコード屋だって店頭販売の主力は午後以降。学校帰りの高校生が暇つぶしに訪れる頃から。もっとも高校生はいくら今時とは言え、そう購買力はないから(少なくとも本屋に来る連中にはない。あるようなやつは本屋には来ない。マンガでも買えば上等だが、それすら望めない。)店は賑わうけど、売り上げはよくない。売り上げが伸びるのは勤め帰りのサラリーマンが寄る頃だ。
開店から午前中は棚の整理。本当は開店前にやらなきゃだめなんだろうけど、どうせ午前中は客が来ない。それから昼の休憩がちょっと遅い頃に入って、休憩明けから放課後まではすることがない状態になってしまう。
見ればレコード屋さんも退屈そう。
「ねえ、そこのお嬢さん。」
「え?私のことですか?」
彼女は驚いて振り返る。
「そう、そう、そこの君。本買っていかない?」
「へ?」
「この本が売れないと、家にはこわい女王様がいて、『売れるまで帰っちゃだめ』とか言われて家に入れてくれないの……しくしく。」
「本当に暇そうですね。」
「うん、暇。ところで買わない。これ?」
「今度出たCD買ってくれたら。」
「う〜ん。手強いな。」
「きゃは、は、は。」
笑ってくれた。第1段階は成功かな?
「で、そのCDって。」
「ZARDの新譜なんですよ!」
「ザード?何それ。」
「ZARD知らないで若いナンパしてたんですかぁ?おじさん扱いされますよ。」
ギクッ。ばればれってやつですか。
「今度、この街にも来るんだけど、初日でSold outで……。運が悪い。」
「そんなに人気あるんだ?」
「おじさん!」
「こらっ。」
「きゃあ、ほらお客さんですよ。」
「あ、本当だ。」
時計を見ると、まだ時間は混雑する時間ではなかったけど……。当然お客さん優先だからね。
「お待たせしましたぁ。」
それが社会人ってものさ。
「がんばったよい子にはこれをあげよう。」
「へえ、なんですか?」
封筒の中にはZARDとやらのチケット。友人にプロダクション系に就職した変わり者がいて、頼んでみたらとれてしまった。
「うそぉ。どうしたんですか?」
「実はおじさんはその筋の人でして、これでお嬢さんをだまして、香港に売りとばそうとしてるんですよ。」
「え〜、いいんですか?悪いなあ。」
「おじさんの話、全然聞いてないでしょう。」
「だって、その筋の人というよりは、その筋の人に脅されてる小市民って感じですよ。」
そのとおりです。はい。
「え?2枚入ってるけど……。」
「彼氏と一緒に行くといい。」
「そんな人、いませんよ。」
はいはい、最初はみんなそう言います。
彼女は、じっと考えた後、1枚ぼくに差し出して……。
「はい、一緒に行きましょう。」
「ぼくが?」
「そう。本当のおじさんにならないための勉強です。」
「……わかりました。お供させていただきます。」
「本当にありがとう。」
帰り道、ぼくは浮き足立っていた。きっと顔もにやけていたのだろう。でも、そんなことどうでもよかった。
コンサートは盛況だった。
「きゃあ、楽しかった。」
「うん、それにしても、伸びのある声だったね。ボーカルの娘。」
「それに、かわいいし……。」
「うん、と、と、と、と。」
「いいって。女の私から見てもいいなあって思うもの……。私もきれいになりたいな。」
ぼくには、君の方がきれいに見えるって言いたかったけど、あまりにもくさいので言うのをやめることとした。
突然彼女が歌い出した。
「揺れる、想い、体じゅう感じて
このまま、ずっと、そばにいた〜い。」
「青く、澄んだ、あの空のような、
君と歩き続けたい。」
「in your dream.」
夜空の下、コーラスする。
「……今度、うちのゼミでコンパがあるんですけど、いっしょに出てくれません。」
「え?ぼくですか?」
「おもしろいと思うけどな。」
「おもしろいって……。」
「お願いします。おたのみマウス〜。」
彼女はかつてのCMのように手を耳のようにして頭につけてかわいいポーズ。
「はい、はい、わかりました。」
「きゃあ、ありがとう。」
彼女が腕を組んでくる。胸のあたりの感触が妙に新鮮だった。
でも若い連中にはかなわない。ぼくもつい先日までは彼らと同世代のはずだったのだが……。
しかもビール1本飲まされた後の記憶がどうも残っていないのだ。
……あぁ頭が痛い……。う〜!
「おはよう。おめざめ?大丈夫?」
えっと、えっと、ここはぼくのアパートのはずだ。うん。大丈夫。で、なんで彼女がここにいるんだ?
「大変だったのよ。ビール飲んで急に眠っちゃうんだもの。ここまで連れてくるのに一苦労。」
「……面目ない。」
「で、家に入ったら、いきなり私を押し倒して……。私、こんなのいやだって抵抗したんだけど、しょせんは女だもんね。男にかなう訳がない……。……覚えてないの?」
……ぼくはけだものか?でも、責任は取るぞ。覚悟はできてる。
「な〜んてね。」
「えっ」
「ぜ〜んぶ、うっそっさ!」
「かんべんしてくれよ〜。」
「意外と純情なのね。メモ、メモ。」
「こらあ。」
「きゃん、ごめ〜ん。でもね。」
「ん?」
「酔ってなければ、い・い・よ。」
「そうやってまたからかう〜。」
「顔、真っ赤だよ。」
妙に大人びた彼女の笑いが妙に心地良かった。こんな想いは久しぶりだった……。
「それにしても何もない部屋ね。」
「うるさい。」
で、次の日。
トン、トン、トン
「は〜い、と?」
「えへへ、お邪魔していいですか。」
後に何かかくして、彼女が立っている。
「いいよ。」
「は〜い。」
「で、何それ?」
「じゃあん。中華鍋とおたま。」
「……。」
「これさえあれば何でもできる。この前のお礼です。」
「ありがとう。ありがたいけど、どうやって使うの?」
「フライパンと一緒だよ。最初だけは手続きがいるけどね。野菜ある?もう捨ててもいいやつ。」
「もやしがあるけど……こら、冷蔵庫をあけるんじゃない。」
「どれどれ、これだけあれば充分!と。」
彼女は手慣れたもので、ぼくの制止も聞かず、中華鍋をコンロにかけると思いっきり強火にした。
「まず最初は思いっきり焼くんだよね。」
なんか楽しそうだな。すると油をちょっと入れて、もやしを炒めはじめた。
「もうこれで大丈夫。油を大量に入れてなじませてから油を戻すのは面倒かもしれないけど毎回こうすれば焦げつかないし、長持ちするよ。」
「おみごと。」
「ありがとう……。」
不思議な感覚だった。
彼女とこういう時間を過ごしているのは、これが初めてのはずなのに、何か懐かしさを感じていた。
こんな時間がいつまでも続くといいな。そうだ。向こうの荷物は引き揚げよう。こっちで暮らそう。今度こそ上手くいくさ……。
「あれ、ちえみさんじゃない?どうしたの。」
「うん、ねえ、私達って変わったよね。」
「どれ。」
「きゃっ。」
ぼくはちえみさんを抱き上げた。
「う〜む、ちょっとは成長したかも。」
「ひっど〜い。」
ちえみさんはふくれていた。でも目は笑っていた。かつてのように。
「いろんなことがあったよね。」
「遠回りしすぎたかもね。」
「でも、それでよかったのかも。」
「そうだね。」
「ねえ、どこからやり直す?」
「高校あたりでいいんじゃない?」
「じゃあ、そうするね。」
ちえみさんはぼくの腕から降りると、すぐに高校時代の彼女になっていた。
久しぶりに夢を見た。
哀しかった。
どうしても涙が止まらなかった。
酒屋に行ってウイスキーを買い、
コップに入れてそのまま飲んだ。
次から次へと入っていった。
「ねえ、どうしたの、寝るんなら布団に入らないと。風邪ひいちゃうよ。」
「は〜い。」
「わ、酒くさい。酔ってるでしょ?」
「は〜い。酔ってます。」
「うわぁ、そんなに酔って……。」
「ちえみさん……今はこうしていて……。」
ふと気がつくとテーブルの上に置き手紙があった。彼女の字だ。
「さよなら。」
ぼくはあわてて彼女の家に走る。チャイムが鳴る。返事があって扉まで足音がするが、そこで止まってしまう。
「どうしたの?開けてよ。」
「帰って、もう会いたくない、会えない。」
「どうして会えないの?開けてよ。」
「だめだよぉ〜。」
彼女の声は涙声になっていた。
「だって、あなたは私を見ていない!」
……そのとおりだった。ぼくは言葉を失っていた……。
「このままじゃ、私もあなたも前に進めないもの……。」
「……。」
「私はちえみさんじゃない。代わりにもなれない。私は私だもの。
でも、私は身代わりでもいいと思ってた。思ってたけど、いつかは私自身を見てくれるって。他の誰でもない私を見てくれるって、そんな日がいつか来るって……。
そんなに似てるの?私を見る度にちえみさんへの想いが深まっていくの?」
「……ごめん。」
「好きなの……。本当に好きだったんだからあ……。」
彼女は泣き出してしまう。ぼくはいたたまれなくなっていた。でも何も言えなかった。動きもとれなかった。
「今度、逢うときは、私を見てね……。」
「うん。」
「そうしたら、今度はうまくいくよね……。」
「うん。」
「そうしたら、ずっとずっと一緒にいようね。」
「……うん。」
「さよなら。」
「……さよなら。」
ぼくは歩き出していた。彼女の泣く声が耳にいつまでもいつまでも残っていた。
それからどうしたかはあまり覚えていない。気がついたら恩師の井田教授のところにいた。
「きょうじゅ〜。」
「ばかもの!」
いきなり怒鳴られた。
「おまえの居場所はここにしかいない。ようやく気付いたか。」
厳しい口調はここまでだった。
「明日からここに来い。じき部屋もあたる。10月から講義を持て。週4コマ。そのくらいなんとかなるだろう。」
「……ありがとうございます。」
行方不明だったことの理由は聞かれなかった。そんなことは言わなくてもいいと井田教授の顔に書いてあった。
「それから、その手に持っている中華鍋とおたま。それを置いて行け。」
翌日助手の辞令をもらった。10月には助教授だという。
悲しい想いの代償は再就職だった。
助教授になった時、ようやく過去を過去としてとらえることができるようになった。
よく計算づくの恋は恋じゃないって言う。金のためとか名誉のためとか、そういう恋は純粋じゃないって言う。
それならば「〜〜のため」って恋、ためにする恋は全部だめなんだと思う。たとえ「過去を忘れるため」の恋であっても……。
そういう恋はだめなんだ。しかも自分の他に哀しい人を1人増やすだけなんだ……。
恋がつらいなら恋などしなければよいだけなんだ……。それ以上でもそれ以下でもない。
でも恋はそんな考えを吹き飛ばす、もっと簡単単純明瞭なものなのかもしれない……。
「せんせ、井田ゼミでジンギスカンやったって知ってました?」
「ああ、あそこは恒例だからね。ぼくもやったよ、学生時代。」
「それがすごいんですよ。中華鍋でやるからジンギスカンじゃなくて肉鍋状態。」
「は、は、は、井田先生らしいや。」
「聞くところによると先生が寄付したとか。」
「違うよ。」
「違うんですか?」
「巻き上げられたんだ。いつのまにか。」
「え、どうして、どうして?」
純粋な瞳で見つめられても、答えにくいことだってあるぞ。
でも、彼女はすぐにあきらめる。
「ふに?ふにゃあ、あ〜ん。」
「なんですか?」
「天気がいいので飼い主に散歩をねだる、こにゃんこのまね。にゃあん。ふにゃお。」
「はいはい、行きましょうか?」
「わあい、わあい。」
扉を閉める。上村助教授室とかかれた札の行先表示を「植物園」に替え(これも彼女の手作りだ。)外に向かう。こにゃんこは先に行って手招きしている。
これが恋かどうかはわからない。だけど、とりあえずこんな時間を大切にしたい。
意外と恋は……。