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   子猫の呪文 「先生?」
「久美子さん?」
「ティータイム、しよ?」
「はい、はい。」
 いつも通りの風景、先生は困ったような返事だけど、実は全然困っていないのがわかってしまっている。どうしてわかるかって?だって、先生の目は笑っているんだもん。名前で呼ぶのにも慣れてきたみたい。本当は「さん」だっていらないんだけど。先生は誰にでもさんづけで呼んでいるから仕方ない。仕方ないけど私だけの特別な何かっていうのも欲しくなるんだよね。だんだん欲が出てくるなんてやだなあ。
 先生はコンピューターのキーボードから手を放し、どこを見るでもなく、ぼーっとしながら紅茶を飲んでいる。「ミルクは温めないのがイギリス流なんだよ。」なんて言いながら冷たい牛乳をたくさん入れるのだって、本当は猫舌だからじゃないのかな。
「う、ふ、ふ。」
「……どうしたんですか。」
「なんでもなあい。」
 世間のまめな男どもとは違う。先生はいつもぼーっとしてるから。そんなにかまってくれる訳ではない。でも、かまってほしいときは、かまってって言えばいいんだな。例えばこんなふう。
「先生、明日のお昼、北西食堂にしません?」
「いいけど、ずいぶんまた遠いところに行くね。」
「北西食堂のお姉さんのチロリアンスタイルの制服、先生好きでしょう。」
「そ、そんなことないよ。」
 わあ、先生、顔、真っ赤。とどめさしてやろう。
「今度着てきてあげるから、楽しみにしててね。」
「……女の子は中身の方がいいんだけどな。」
 それ逆襲のつもり?先生が言っても攻撃になっていないよ。
 傍若無人なのは子供のせいじゃない。こんなことは他の人には言わない。先生だけが特別なんだよ。でもこういう行動をとるのは……、子猫だからかな。

 でも、子猫だからって聞けないことがある。例えば先生の好きだった人。先生が好きで好きで、でも想いがかなわなくて、仕事もできなくなって、この街からも離れさせた、そんな人。先生を臆病にしてしまった人。
 それは、どんな人ですか?
 その人のこと、今も好きですか?
 かわりに私じゃだめですか?
 本当は一番先に聞きたい質問。でも、きっと先生を傷付けてしまう。こんなこと聞く私に先生は笑顔を見せてくれるだろうけど、笑顔の陰の先生の泣き声を、もう聞きたくないから。
 もうすこし我慢する……。
 そしていつか、いつになるかわからないけど、だけど確実にやってくるいつか、先生は白い馬に乗って私を迎えに……あれ?

「じりりりり〜ん。じりりりり〜ん。」 
 最近の電話は「ベル」とは言えないような気がする。大学は電話にまで金をかける気がないのか、電話は一昔前のダイヤル式だ。コンピューターのための回線は、廊下に棚を作って走らせているんだけどね。だから電話の「ベル」がなっている。
 先生はいない。一瞬出ようかどうか迷う。まあいいや。出てしまえ。
「はい、上村研究室です。」
「あら、上村教授室じゃないのね。」
 女性、若そう、でも落ち着いた感じの声。子猫の私はちょっと嫉妬する。
「上村教授室に回してもらえますか?」
「上村助教授の部屋ですが、先生は今講義中です。」
「そうですか。では、伝言をお願いできますか。」
 きれいな日本語だなあ。
「道庁の小泉ちえみといいますが、明日お伺いしたいので、都合のよいお時間をお知らせいただけないでしょうか、電話は……です。それではよろしくお願いします。」
 私も、こういう女性になれるのかな?憧れと嫉妬とちょっと複雑な気分。

 でも、伝言を聞いた時の先生の顔は、ちょっと悲し気だった。
「うん、ありがとう。」
 そして電話を取る。
「それじゃあ、明日の午後2時20分、お待ちしてます。」
 こんな時先生は大人だなって思う。会いたくない人と会わないでいることは、社会人にはできない相談。大学の先生はまだわがままがきくほうだと思うけど。上村先生はそういうわがままを言わない。
 何も言わずにミルクティー、それもミルクの割合の多めのもの、先生の好みだから。ミルクティーを入れながら、思わず聞いてしまう。
「……会いたくないんですか?」
 先生にミルクティーを出す。先生、ちょっとだけ笑顔が戻る。
「のどが乾いたら水を飲み、心が乾いたらお茶を飲む……か。」
「?」
「お仕事モードの約束だよ。」
 うそ。心の中で大きく叫んだ。でもこれ以上聞いても先生は何も言ってくれない、そんな感じがした。

 もう、この日なんて眠れるもんじゃないもの。

 眠い目をこすりながら大学に行く。本当は授業なんてさぼりたかったんだけどね。でも授業でも聞いてなきゃやってられないじゃない。

 午後2時30分、きっとお客さんはまだいるだろう。でも先生に悲しい顔をさせた張本人、ついでに言えば私に憧れと嫉妬と寝不足をもたらした人が誰なのか、きっちり見ておく必要があるでしょう。
 トン、トン、トン。
「失礼します。」
 そういえばちゃんとあいさつして研究室に入ったことなんか、このところなかった。
 予想通りお客さんは残っていた。さらさらの長い髪にめがねかけてて、薄めの、でもピンクじゃない赤いルージュが、きれい。紺のスーツも決まっている。大人……ため息が出そう、でもどっかで見たことがあるような……。
 彼女は私の方を向いた。最初はちらっと、でもなかなか視線をそらさない。
「初めまして、小泉です。秘書さん?」
「こらこら、公立大学の教員に秘書なんかつかないよ。うちのゼミ生。」
「菅野です。」
「昨日の声の人ね、どうもありがとうございました。」
「菅野さん、お茶いれてくれる?」
 え、久美子さんじゃないわけ……。
「あら、いいわよ、もう、おいとますることにする。」
 でも、小泉さん、すぐに帰る気配はない。また私の方をちょっと見てから、先生に、
「もう少し大人にならなきゃね。」
 え?先生になんてこと言うの。
「女の子は名前で呼んであげないと、かわいそうだぞ。」
 ……?
「女の子の気持ちをわかってあげなきゃね……。」
 ……なんか腹立つなあ。先生はうつむいたままだし。しかも小泉さんは部屋から出る間際私に向かって、
「上村をよろしくね。」
 なんて、言うんだから……。

「しゃああああああ。ふーーーーーっ。」
「どうしたの?」
「毛を逆立てて怒ってる猫のまね!先生、あれ、何?頭来る!いったい誰なの。あの人。」
「う〜ん、彼女は小泉さんと言いまして……。」
「それは知ってるわよ。」
「昔は三村ちえみさんと言っていたんだな。」
「それで?」
「……言わなきゃだめ?」
「言うの!」
「元、婚約者なんだな。」
「誰の?」
「私の。」
 し、しまったあ。怒りにまかせて、言わせてしまったあ。
 部屋の中に沈黙が広がる。おそる、おそる先生の顔を見る。
「怒ってないよ。」
 先生は笑っていた。
「ミルクティー、私にもいれてくれます?久美子さん。」
「は、はい。」
 そういうと先生はコンピューターに向かって作業をはじめた。
 お湯が沸くには時間がかかりそう。静かに先生の後ろまで歩いていって、いきなり抱き付いた。
「くにゃあん。」
 先生、手を止めないで聞いてくる。
「どうしたの?」
「すりすり。甘える時の猫は8の字に歩くんだよ……。」
「はい、はい。」
 いつのまにか、いつもの雰囲気が戻ってきていた。そうほのぼのとして、ほっとして、安心できる、そういう雰囲気。だから子猫でいられるんだな。

 うん。私、先生を落とす!
 先生には幸せになる義務がある!
 私が幸せにしてあげる……。
 (私が幸せになるんだ……なんて言わないように!)

 ころあいは6月。先生の家を調べておく。効果は雨。
 あえて白の薄めのブラウスと紺のスカートで、いかにも先生の好きそうな服装に身をかためて……と。
 雨の中、傘もささずに先生の家へ走る私。
 
「ど、どうしたの?」
 そりゃあ、驚くわな。チャイムが鳴って、出てみれば、そこにはぬれねずみな私がいるんだもの。
「……だって、先生に……、会いたかったんだもの。」
「とりあえず入りなさい。」
 本当にとりあえずって感じで招き入れる。最初にタオルを投げてよこして、それから風呂を沸かしに行く。奥に入って何かごそごそしたかと思うと、白い塊を投げてきた。スウェットの上下だ。
「風邪ひくといけないから、それに着替えて。お風呂わいたらきちんと入るんだよ。着てきた服は乾燥機で乾かして。私は奥の部屋にいるから。」
 私に何も言わせないで、奥の部屋に引っ込んでしまう。怒らせちゃったかなあ……。それとも私に魅力がないのかなあ。こういうシチュエーションになると、たいていの男は落ちちゃうんだけどなあ。ま、いいか、お風呂入っちゃえ。
 先生は、向こうの部屋にいるはずなんだけど……。こちらの方にはやってこない。
 見てほしいんだけどな……、なんてこと考えたりしてね。

 風呂上がり、先生のスウェットを着る。着る前にちょっと匂いをかいでみたりして。見た目はそんなに大きく見えないんだけど、ちょっとだぶだぶの感じに照れてしまう。先生に包まれているみたい。
 ここでひたっていてもしょうがないな。先生のところへ行こう。

「……先生?」
「ちゃんと暖まった?」
「うん。」
「こういう無茶しちゃだめだよ。」
「うん。」
 とりあえず借りてきた猫のふり。
「そもそも、雨の日にわざと濡れて来るってのは、ぼくが話したテクニックじゃないか?」
 え?そうだっけ。
「ぼくの知り合いの銀行マンがさ、預金取れなくて、それで思い付いた手が、同情をひこうって作戦で、雨の日にわざと傘ささないでいく。意外にうまくいくって、民間時代の話をした時、言わなかったっけ?」
 はい、そのとおりでございます。内容だけ覚えてて、話し手のことはすっかり忘れておりました。
 でも、それって、すっかりお見通しってことか?先生、それはずるいぞ。
「……そこまでわかってるなら、」
 必殺上目づかい。ちょっと瞳をうるわせたくらいにして。
「どうして何も言ってくれないの?」
 これは女の武器を有効に使わないと。
「女の子だって何も言ってくれなきゃ、不安になるんだよ。」
 あ、いかん。自分ではまってきた。もう言葉が止まらない。
「別に先生だけを好きで居続けた訳じゃないもん。こんなに長い人生だもん。他にも好きになった人はいるもん。もう子供じゃないもん。」
 ああ、言っちゃった。
「でも今は先生が一番なんだもん。でも、先生何も言ってくれない。わかってるのに何も……。」
 言葉が続かなかった。私のせいじゃない。先生が私の近くによってきて、訴える私の唇を自分の唇でふさいでしまったからだ。目を閉じる私。で、気が付いてみたら先生は私をじっと見ていた。
「……ばかあ。」
 すねる私。ソファに座る私の横、先生は隣に座り、頭を私の方にのせてきた。甘えているかな?
 そして先生は話し始める。
「女の子を傷つけたことがある。旅先で出会った娘でね。一目惚れってやつ。彼女もぼくのことを好きになってくれて。……でも、彼女って元の婚約者にすごく似てたんだよね。元の婚約者って小泉さん。一目惚れじゃなくて、小泉さんのことを彼女に重ね合わせていただけなんだよ。何かのためにする恋愛が不純なのなら、誰かを忘れるための恋愛もしちゃいけないんだね。だからもう恋愛はしちゃいけないんだって思ってた。こんなぼくを許してくれる大人の女性がぼくを救ってくれない限り、ぼくは恋愛できないなんて思っていたんだ。
「先生?私は子供?」
 先生は、起き上がると私の顔をじっと見て、そして微笑みながら、私の頭をぽんぽんとたたき、
「もしかしたら子猫かもな。」
「えーっ。こういう時に、そういうこと言う?」
「ぼくのかわりに、勝手に怒ってくれるし、勝手に泣いてくれる。あなたがそうしてくれたから、ぼくは泣かなくてすむんだな。こんな時が、いつまでも続いてくれたらって、そう思っている。これってわがままかな?」
 なんかね、先生を落とすなんて、もう、どうでもよくなっていたんだ。先生はそのままの私を気に入ってくれている。そして私にはきちんと話してくれるようになった。これだけあって、あと何を望めばいいのかな。
「先生、本の数少ないね。大学の先生にしては。」
「ぎくっ。気にしていることを……。大学にめぼしいものは持っていったし、家ではあまりお仕事のことは考えたくないって、やっぱり、言い訳?」
「うんうん、立派な言い訳。」
「きっついなあ。」
 でも先生、笑いながら言っている。
「ねえ、私ってこの部屋の雰囲気にあっている?」
 先生ちょっと悩んで、で、腕組みしたまま、
「これから風景に溶け込んでいくんでしょ。」
「うん!」

「先生。とっておきの呪文を教えてあげる。好きな女の子がほしいって思ったら、女の子の耳元で、愛してるってささやくんだよ。好きな男の子にそう言われたら、何だって許しちゃうんだから。」
 そうしたら、先生、私の近くまで来て、私の耳元に顔を近付けた。近付けたけれど、その後、何もしてくれない。まったく奥手なんだからあ。で、言った言葉が、
「好きだよ。」
 う〜ん、わかってないなあ。でも、ま、いいか。

 あとは二人の間に言葉はいらない……って次第。

 目が覚めたらもう次の日の朝、隣で先生がまだ眠ってる。なんか安心したようないい寝顔だよ。先生を起こさないようにしてベッドから出る。朝にはミルクティーだもんね。絶対に。
 先生はまだ起きてこない。でもほっとく訳にはいかないな。ベッドのそばまでミルクティーの出前だもんね。
「おはよ、先生。」
「う、ん、あ、はい、おはようございます。」
 さてはまだ起きてないな。
「ミルクティーいれましたよ。」
 先生にミルクティーの入ったカップを手渡す。
「ありがとうございます。……と、ああ、目が覚めた。うん。おいしいね。もう大学なんて行きたくないくらい、おいしい。」
「先生は1講目から授業あるでしょ?教養の特別講義だっけ。」
「う〜ん。さぼりたいなあ。」
「だあめ。先生の授業を楽しみにしている女子大生がいるかもだよ。」
「いるかもじゃありません。いるんです。」
「でも、色目使ったらだめだよ。」
「はいはい。ところで久美子さんは?」 
 まだ、「久美子さん」なの?
「私は自主休講に決まってるじゃないですか。一昨日からもう眠れなくて、眠れなくて。」
「……ごめんなさい。激しかった?」
「ばかあ。そうじゃなくてえ。一昨日、小泉さんのことが気になって眠れなかったんだもん。」
「もう、大丈夫だよ。」
「うん、わかってる。」
「じゃあ、仕方ないから講義に行くことにするか。」
 そして、先生、おばかな発言をする。
「見ちゃだめだよ、恥ずかしいんだから。」
「何、言ってるんですか?」

「それじゃあ、ぼくは行ってきますから。あとはゆっくり寝てていいよ。」
「はあい。そうします。」
「あ、そうだ、これ。」
 そう言うと先生は上着の左ポケットから鍵を取り出した。
「呪文のお礼。お守りにでもして。それじゃあ、行ってきます。」
 先生、これってもしかして……。聞く余裕もなく。先生は出かけていった。その後、おもむろに私も外に出て先生の家の玄関の扉に鍵をかけてみる。
「……ありがとう。大切にするね。」
 心の中でつぶやいた。

「じゃああん。」
 教授室に入るなり自分で音楽鳴らしてみる。
「どう?これ?先生こういうの好きでしょう。」
 私はといえば、紺のブレザーに紺のボックスプリーツのスカート、白のブラウスに赤のネクタイをきちんとしめている。
「……どこからそういう情報を仕入れて、服を調達してくるんだ?」
「先生の好みなんてばればれだよう。で、高校時代の制服。もしかして先生ってロ・リ・コ・ン?」
「う〜ん、そうかもなあ。ロリータに手を出すんだからなあ。もう否定できなくなったかもな。」
「こらこら、本気にするんじゃない。」
 会話だけ見ればいつもの会話。特に変わったところなんてありゃしない。こんなんでいいのかな……なんてことは実は考えていないんだな。質問なんてどこかに消えてなくなってしまった。私は先生の近くに入れれば、それ以上を望むのは贅沢だって思ってた。でも、それは贅沢ではないんだって今は確信している。
 贅沢ではないって、私のポケットの中の1本の鍵が言ってくれている……。
 



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